掌編

訪ねる男

小さな包みを胸に抱き、男は、どんな香りでも作り出すという調香師の住む家の門をくぐった。彼はこのために北の町からはるばるやってきた。七十年間の人生で初めて飛行機にも乗った。 広い庭には、さまざまな植物が茂っていた。種類の違う木々が一本ずつ並び…

彼の仕事

俺はサンタクロースなんだと、客は言った。 ご冗談を、とバーテンダーは笑い飛ばす。サンタクロースなら、イブの夜にこんなところで酒を飲んでいるわけがない。今頃はプレゼントを配るのに忙しいはずだ。 「あれはただのパフォーマンスだよ。俺の本当の仕事…

 穴

通りには酔っ払った大量の人間があふれていた。その人混みをかきわけ、目立たないように背を丸めて早足で歩きながら、男は、いつもの店を目指していた。 ビルとビルの隙間にあって、看板もない。人の往来が激しい場所なのに誰もその店の入り口には気がつかな…

魔法使いの職探し

魔法使いと出会ったのは職安の隅にある喫煙室だった。 タバコをくわえたあとに、ライターを忘れたことに気がついた僕は、煙をむさぼっているガス室の中の面子を見渡した。どいつも職探しがうまくいってないのか、目が血走っていて、声をかける雰囲気ではない…

贅沢なカフェ

白く塗られた小さな扉には、クローズドの札が掛かっていて、「しばらく休みます」と書いた張り紙が貼ってあった。電車を三回乗り継いでここまでやってきた彼女は、それを見てもさほど落胆しなかった。張り紙の隅に書かれた日付を見る。休みになってから十日…

伝説のラーメン

伝説のラーメンが岩倉にあると聞いて、俺は叡山電車に乗ってやってきた。 手がかりは一枚の地図と、岩倉という字だけだ。なんだか山の中に赤い点が表示されていて、そこに岩倉と書いてあるのだ。 大体伝説という言葉からしてうさんくさい。伝説のラーメン? …

公園おじさん

その小さな公園は誰にでも開かれていた。夜明けとともに小さなスズメたちが飛んできて木々を占領し甲高い声でさえずった。朝は若いジャージ姿の男性がランニングを始めるための準備運動をした。やがて小さな子供たちをつれて遊びに来る母親たちの話し声でに…

チャトラ(お題:「祭り」「トラネコ」「紅葉」)

「じゃあ、ここでチャトラのためにお祭りをしよう」 と、順君は静かに言った。 「チャトラが死んだのに、お祭りなんて気分じゃない」 あたしはしゃくりあげながら、順君をにらんだ。 「順君は、チャトラが死んで嬉しいの?」 「悲しいよ。だからお祭りをする…

月夜

二十二時を回った頃、妻が立ち上がり、キッチンに消えた。ことことと小さな音をたてながら、サンドイッチを作りはじめる。僕はやりかけの仕事に区切りをつけて片付けると、窓を開けて空を見上げた。金色の丸い月が煌々と照っている。空気は澄み切っていて、…

都会ウサギと四葉のクローバー

物心ついたときから、俺は都会で一匹で生きてきた。小さいときは、カラスに襲われそうになったり、猫に食われそうになったこともあったが、体が大きくなった今は、そんなこともなくなった。車に引かれないコツも覚えた。犬だけは怖かったが、首から伸びてい…

ここ数日のあたたかさに油断して、薄着で外に出てしまった男は、三月の気まぐれな天気を呪いながら、粉雪の混じる風の中、自転車をこいでいる。ジャケットの衿をたて、身を縮めながら、少しでも早く自分の部屋に辿り着こうとしていた、はずだった。 ふと、男…

仕事帰り、そのカフェの窓際のテーブル席に座り、夕食代わりのサンドイッチとコーヒーを注文するのが彼女の日課だった。顔を横に向けて外を見ると、目の高さに黄色い四角と黒いシルエットが浮かび上がっている。向かいの建物の窓だった。彼(そう、シルエッ…

橋の下

「どうだ、釣れるか」という言葉に、僕は今、自分が釣りをしているのだということを思い出した。釣竿を握ったまま川を眺めているうちに、随分とぼんやりしていた。 顔を上げると、一人の男が立っていた。日に焼けた顔には、深い皺が刻まれていたが、顔一面を…

世界

そもそもの始まりはちっぽけな細長い生き物が地面に叩き潰されたような声で、世界よと呼びかけた時にうっかり返事をしてしまったことだった。その瞬間に、彼は世界となり、世界は彼となった。呼ばれた瞬間に世界は誕生したのか、それより前には存在しなかっ…

長い電車

つまらない作業に没頭していて、顔を上げたら外は闇だった。眩暈と吐き気に襲われる。時計を見ると、まだ17時半だった。それはかつて、夕焼けの気配すらない時間だったのに。夏の記憶が染み付いて離れない体が混乱する。こんなはずじゃなかった。こんなはず…

アゲハ

パセリを刻む。青臭い匂いが立ち上ってくる。一つまみ口に入れたら苦い味が広がる。料理にアクセントを添える薬味としてはいいけれど、これを主食にしてもりもり育っていくアゲハの幼虫は、悪食といったって差し支えないだろう。他に柔らかくて美味しそうな…

妊娠しちゃった

「妊娠しちゃった」 と、女は言った。俺は携帯を耳から離して液晶の表示を確認する。非通知。 「あんた、誰」 「たぶん、君の知らない人」 女の声は気だるく舌足らずだ。 「どうして俺の知らない人が俺の携帯にかけてきてそんなこと告げるわけ」 「あなたに…