贅沢なカフェ

 白く塗られた小さな扉には、クローズドの札が掛かっていて、「しばらく休みます」と書いた張り紙が貼ってあった。電車を三回乗り継いでここまでやってきた彼女は、それを見てもさほど落胆しなかった。張り紙の隅に書かれた日付を見る。休みになってから十日が過ぎていた。そろそろ生まれるのかしら、と、つぶやくと、くるりとカフェに背を向けた。
 その夜、彼女の元にカフェの店主から電話がかかってきた。
「三日後の夜に」
 分かった、と答えて彼女は電話を切る。それから、二人の友人に電話をした。一人は画家で、もう一人は女優だった。ちなみに彼女は小説家だ。電話が終わると、デスクの目の前の壁に貼ってあるカレンダーの三日後の日付に大きくマルをつけた。そして、ずいぶん長い間書きあぐねている新作の下書きを脇によけると、久しぶりに本を取り出し、のんびりと読み始めた。
 三日後、郊外の白い扉のカフェのテーブルに三人が集まった。地方で公演中だったはずの女優も、ちゃんと時間どおりに出席していた。
「このためなら、どんなことしてでも駆けつけるわよ」
 白いドーランと黒々とした目の舞台メイクのまま、女優は、にやりと笑った。
「ああ、楽しみ。今日はどんな料理が食べられるのかしら」
 普段は悪食で、毎日同じメニューばかり食べている画家が甘ったるい声を漏らす。奥の厨房からは何かが焼ける小気味いい音が聞こえてくる。
「それにしても、あの子、この才能を世間に発表したいとか思わないのかしら。本当に、もったいない」
 女優が大げさに溜息をついた。その件については他の二人も同意見だった。こんな小さなカフェの店主が、見たこともない絶品の料理を生み出す天才だなんて、誰が信じるだろう。だけど、仕方がないのだ。彼女は、いつも三人分しか作らないし、同じものは二度と作りたくないのだから。
 いい匂いがただよってきて、空気がさっと塗り代わった。気がつけば、店主が手に白い皿を持って立っていた。三人は歓声をあげて拍手で迎える。室内に、驚きの声と、笑顔と、ナイフとフォークの触れ合う音とが満ちていく。
「こんなに素晴らしいものを、わたしたちだけで楽しむなんて、本当に贅沢だわ。もったいないって、今話してたのよ」
 女優の彼女が言った。カウンターの中に座ってワインを傾けていた店主は、それを聞いて、豪快に笑った。
「いいじゃない、贅沢をすれば。あなたたちって、こんな贅沢に慣れてないのよね。そういうの、貧乏性って言うのよ」
 三人は顔を見合わせる。確かに、少しでも多くの人に知られなくちゃと、がつがつしている自分たちは、才能の貧乏性といえるかもしれない。
 幸福な時間はあっという間に過ぎていったが、小説家はいつまでも料理の余韻に浸っていた。体中の冷たく澱んだものが洗い流され、代わりに、とくとくと力が満ちていく。突然、彼女の頭の中で、一人の人物がくっきりとした輪郭を持って現れ、生き生きと喋りはじめた。ああ、これで書ける。小説家は沸きあがってくる興奮を鎮めるために目を閉じた。そのせいで、テーブルに沈黙が訪れたが、気にする人は誰もいなかった。画家は見え始めた光景を追いかけるために、コーヒーの黒い面を眺めていたし、女優は演じている役の新しい面を発見し、夢中になってセリフを口の中で言い直していた。
「生まれる」
 店主は三人を眺め、満足そうにつぶやいたが、その言葉は、集中している三人の耳には届かなかった。

(初出:Birth)