穴

 通りには酔っ払った大量の人間があふれていた。その人混みをかきわけ、目立たないように背を丸めて早足で歩きながら、男は、いつもの店を目指していた。
 ビルとビルの隙間にあって、看板もない。人の往来が激しい場所なのに誰もその店の入り口には気がつかない。男はそこを「穴」と呼んでいた。地下へ続く階段を降りていく。足元に小さな誘導灯が灯っており、手すりがついている。狭く、長く、薄暗い。だんだん濃くなる闇を吸いこみながら、穴へ来た、と男は思い、何かを手放したように体の力が抜けていくのを感じる。
 店の中は暗闇といってよかった。グラスの中の酒の色は見えない。グラスの形すら、手で触って何とか想像できるくらいだ。初めてここに来た時は、何を飲んでも味が分からず飲んだ気がしなかったものだが、今では暗闇のおかげで飲み物の味に専念できた。店には音楽はない。氷がグラスにぶつかる音を聞き、喉を通るアルコールの熱さにだけ全神経を集中させる。
 カウンターのテーブルの上だけはほの白く光っていて、グラスの位置や灰皿の位置を何とか確認できる。しかし、カウンターの奥は完全に闇だ。バーテンダーは、この闇の中で、どうやって酒を作っているのだろうか。見えない位置に手許を照らすランプがあるのかもしれない。グラスを置いたり灰皿を交換する一瞬だけ、バーテンダーの手が見える。男はグラスを揺らして、氷のゆれる音に耳を澄ました。バーボンの香りが微かに立ち上る。
 今夜のバーテンダーは、いつになくよく喋った。男はぐるりと頭を動かした。店に他に客はいないようだ。誰かがいれば、テーブルにグラスを置く音がする。煙草を吸っていれば、赤く光る炎が見える。今日は初めてバーテンダーの名前を知った。モグラというのだ。穴で暮らすバーテンダーに相応しい名だ。自分で付けたのか、それとも誰かに付けられたあだ名なのか、男は訊きたがったが、バーテンダーは小さな声をたてて笑うだけで答えなかった。
「暗闇で暮らす生き物の目を見たことがありますか? たいてい、退化して小さくなっています。中には目というもの自体、なくなったりしているのもいるんです」
 バーテンダーは、男の手から空のグラスをそっと取り上げた。
 男は新しく煙草をくわながら、そういえば俺は、モグラの目を見たことがあっただろうか、と考えた。サングラスをかけて笑っているモグラのイラストを思い浮かべる。サングラスの中の目はいったいどうなっている?
「ほら」
 カチリという音がして、バーテンダー、いや、『モグラ』はライターの火をつけた。背の高い炎が上がって、モグラの顔を照らした。思っていたより若い輪郭だった。鼻筋が通っていて、人懐っこそうな唇が笑っていた。それから、目がなかった。本来目がある位置はつるんと平らで、皮膚があるだけだった。
「驚いた」
 と、男は正直に感想を述べた。モグラは炎の出力を少し弱めてから男の煙草に火をつけ、ライターを消した。急に明るい炎を見たので男の目はちかちかしていた。今まで見えていたグラスや灰皿が見えなくなった。こつんと音がして、グラスがカウンターに置かれたが、目が再び暗闇に慣れるまで、グラスを取りあげることもできそうになかった。
「かわいそうに、目がないと不便だろう」
 と、男は言った。心からの言葉だった。
「いいえ、少しも不便じゃないですよ」
 と、モグラは答えた。その声の調子があまりにもあっさりしていたので、男の胸からは同情の気持が消えて、代わりに好奇心が湧いてきた。
「じゃあ、目がない代わりに他の感覚が鋭くなっているんだろう? たとえば耳がよくなったとか」
「音にも、匂いにも、他の人間より敏感ですね。でも、一番違うのは、エネルギーが見えることです」
 エネルギー? 気とかオーラとかそんなやつだろうか。何だかオカルトじみてきた。男は笑った。
「エネルギーを感じる、か」
 モグラが沈黙したので、笑ったことに気分を害したのかもしれない、と男は反省した。普段なら相手の表情から何を考えているのか分かるのに、暗闇の中では相手の感情を察するどころか、そこにちゃんといるのかどうかすら分からなくて不安になる。
「感じるっていうのとは、少し違うんです」
 モグラの声が聞こえて、男はほっとした。
「感じるというのは、退化した皮膚感覚の用語です。そうじゃなくて、見えるんです」
「見える? 目がないのに?」
「目だけで見ているのは人間だけですよ。ほかの動物たちはいろんな器官を使って見ています。色鮮やかに見ているんです。匂い一つ嗅ぐことだって、彼らにとっては見ることと同じなのです。匂いの光、匂いの闇。匂いの色、形、奥行き」
 匂いの光、匂いの闇、匂いの色、形、奥行き。モグラの言葉が呪文のように木霊し、男の頭の中でやさしく響く。音の光、音の闇、音の色、形、奥行き。
「エネルギーの光、闇」
 男はぼんやりしたままつぶやいた。
「そう、私には見えるんです。あなたが、今、真っ暗闇にいるのが。この店の闇のことではありません。エネルギーの真っ暗闇にいるんです」
 モグラの声が遠く小さくなる。男の体が深くて狭い溝に落ちて行く。深海の底のまだ底の、冷たく暗い海溝だ。どこまで落ちていくのだろうか。男は恐怖に全身が震えて息が止まった。
「かわいそうに、せめて明るさを感じる最低限の感受性さえあれば、そんなところに落ちなくてすんだのに」
 男は我に返って、頭を振った。それから、ポケットから適当にお金を掴むとバーテンダーに渡した。おつりが戻ってくる。それから足もとの誘導灯を頼りに地上へ上がる。
 目を差す光に顔をしかめて、ネオンの中を通り過ぎる。早くこの夜の町を抜けて、家に着いて、寝て起きて、それから太陽の差す光の中で朝を迎えたかった。俺には目がある。しかし、エネルギーの真っ暗闇の中で、エネルギーを見る器官は退化してなくなってしまったのだ。俺はかわいそうではない。なぜなら、この真っ暗闇では見る必要がないからだ。男は自分にそう言い聞かせ、足を速めた。<了>

(2003年・第3回たまみ文学賞優秀賞受賞作品を改稿。テーマは「光」と「憂い」でした。)