仕事帰り、そのカフェの窓際のテーブル席に座り、夕食代わりのサンドイッチとコーヒーを注文するのが彼女の日課だった。顔を横に向けて外を見ると、目の高さに黄色い四角と黒いシルエットが浮かび上がっている。向かいの建物の窓だった。彼(そう、シルエットは若い男だ)はいつも、窓の前に座って、一杯のコーヒーをしみじみと飲んでいる。表情までは見えないが、彼の飲むコーヒーはとても美味しそうだ。彼女は、対抗するようにサンドイッチにかぶりつく。
 その日は仕事が長引いて、店に辿り着いたのが随分遅かった。彼女はまず、外を見て窓が光ってないことに落胆した。それからいつもの席に目を移し、椅子の一つが誰かに占拠されていることに気がついて、さらに落ちこんだ。いくら彼女がその席にこだわっているとはいえ、見知らぬ人と相席する趣味はない。
 最悪な夜、と気短な彼女は早々と結論づけて帰ろうとしたが、ふと足を止めた。
 コーヒーを飲む様子に見覚えがあったからだ。
 見知らぬ人と相席する趣味はないが、見知らぬ人でなければ話は別だ。
 彼女は、やや緊張しながらいつもどおり窓際の席に座って、サンドイッチとコーヒーを注文した。目の前に座っている男は、彼女を見て微笑み、それから外を見た。
「部屋の電気を付けてくればよかった。ここからどんなふうに見えるのか、見てみたかったのに」
 つられて、彼女も横を向いた。電気が付いていない窓は、闇と区別がつかなかった。
 彼女は小さく咳払いをし、声を潜めて告白した。
「あのね、わたし、あなたがそんなに格好いい人だと思ってなかったの。裸眼で視力0.3だから」
 彼は笑って、
「俺は2.0だから全部見えてたよ」
 と、言った。彼女は耳まで赤くなった。サンドイッチが運ばれてきて、湯気の立つコーヒーが彼女の前に置かれた。どうぞ、と促されて彼女はサンドイッチを手に取った。その左手を黙って見ていた彼は、あれ、と呟いた。
「2.0だけど、それは見えなかったな」
「だって、今日付けたんだもの」
「それはおめでとう」
「どうもありがとう」
 彼女は少々やけくそ気味に大きな口を開けて、サンドイッチにかぶりついた。
 彼はいつも窓の向こうでしていたように、一冊の本を広げてゆっくりと読み始めた。
 口の周りを拭ってコーヒーを飲み干すと、彼女はもう一度、外を眺めた。真っ暗だった。あの窓の四角い光がないせいで、どこまでも遠く吸い込まれていくように思えた。