ここ数日のあたたかさに油断して、薄着で外に出てしまった男は、三月の気まぐれな天気を呪いながら、粉雪の混じる風の中、自転車をこいでいる。ジャケットの衿をたて、身を縮めながら、少しでも早く自分の部屋に辿り着こうとしていた、はずだった。
 ふと、男は自転車から降り、通り過ぎたばかりの道を振り返った。そして、そのまま立ち尽くす。彼の視界を占拠しているのは、一人の女の後姿だった。彼女は男の知り合いではない。どころか、自転車ですれ違う一瞬で、男は彼女の顔を充分に確認できなかった。ちらりと見ただけだった。それなのに、男は自転車を止めた。少しずつ遠ざかっていく彼女の後姿に、視線を釘付けにされていた。
 女の歩く様子が美しかった、と言えば簡単だ。だが、美しいだけならわざわざ立ち止まらない。男が自転車を止めたのは、その後姿に、得体の知れない胸騒ぎがしたからだ。
 男は、持っている集中力全てを聴覚に割り当てて、耳をすます。コッツン、と靴音が聞こえた。彼女の靴音だった。少しでも気を抜くと他の人間の足音にかき消されそうになる。しかし、すぐに、男は彼女の足音だけを聞き分けることができるようになる。
 無数の足音の波の中で、ただ一つ彼女の足音だけがリズムを乱している。いや、乱しているのではなく、リズムを「生み出して」いる。拍動のように、繰り返される音。コッツン、コッツン。
 彼女の右足が前へ踏み出される。その動きにつられるように左足もひらりと持ち上がるが、それは決して右足より前に出ることはない。右足が地面を叩くコ、という音と、左足がその横に添えられる控えめな音。
 足が悪いのだろうか。それは違うだろう、男はすぐに自分の思い付きを否定する。コッツン、コッツンという歩き方は、軽やかで華麗だった。それに、細いが繊細な筋肉を注意深くまとった二本の足は、ダンサーのように完璧で健康的だった。
 遠ざかっていく彼女を眺め続けていた男は、突然気が付いた。彼女の靴のヒールの高さが左右で数センチ違うことに。
 そのとき、彼女が雑踏の中で立ち止まった。男は緊張する。彼女は今にも踊りだしそうでもあったし、同時に、今にも倒れて二度と動かなくなってしまいそうでもあった。
 彼と彼女の間を群衆がざらざらと通り過ぎていった。