橋の下

「どうだ、釣れるか」という言葉に、僕は今、自分が釣りをしているのだということを思い出した。釣竿を握ったまま川を眺めているうちに、随分とぼんやりしていた。
 顔を上げると、一人の男が立っていた。日に焼けた顔には、深い皺が刻まれていたが、顔一面を覆う髭のせいで人相も年も分からなかった。風向きが変わって、むっとした体臭が漂ってくる。僕は、男を無視した。釣れていないことは訊かなくたって分かるだろう。そもそも、釣った魚を入れるはずのバケツだって用意していない。餌は魚肉ソーセージだが、まだ針についているのかどうかも疑問だ。
 釣れても釣れなくても、どうでもよかった。暇なら釣りでもやったらどうだ、と、道具一式を友人からもらったから、近所の川に出てきたのだ。要はその友人が捨てる手間を省くために押し付けられたのだが、暇じゃない、と反論するのもむなしかった。今の僕は無職だった。
「釣れたらどうするんだ、食うのか」
 無視したのに、男はさらに話しかけてくる。気持悪くて餌も買えなかったのに、魚がピチピチと地面で暴れているのを掴むことなんて出来るわけがない。ましてや食べることなんて。
「ここの魚は、食ってもまずいぞ」
 男はそう言って、川を見つめた。彫が深く、案外精悍な顔をしていた。僕もつられて川を見る。澱んだ黒い流れだった。
「食わない」
 と、僕は答えた。男はにやりと笑った。黄ばんだ歯が覗いた。
「じゃあ、釣れたら俺にくれ」
 男は、一つ向こうの橋の下を指差して、あそこに住んでるから、と言った。分かった、と頷けば、男は立ち去るかと思ったのに、上機嫌になってさらに喋り続ける。僕は、釣竿を見つめ、釣りに集中している振りをして、男の言葉を聞き流そうとした。
「俺は嘆かないで生きていくことにした」
 僕は初めて男を正面から見すえた。どういう話の流れで、その言葉が出たのか分からなかった。
「今年の冬は寒いそうだ」
 また、唐突に男が言った。
「俺が死んだら、嘆いてないか、お前に確認してほしい」
「嘆いてないか、確認する?」
 僕は男の言葉を取りこぼさないように、慎重に繰り返す。
「そう、俺の死体が嘆いてないか、確認してほしい」
 俺の死体、僕は男のセリフを頭の中で繰り返したが、口には出せなかった。ほら、引いている、と男が言った。竿の先に目をやると、ぴくりとも動いた形跡がなかった。再び目を戻すと、男の姿は既に消えていた。 

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「美しい死とは何ぞ」多摩川のほとりの野辺に潰れた骸 /蜂子
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※蜂子さんの短歌から想起した掌編小説です。
  蜂歌/Hello!Mr.Darkness. http://song4joy.jugem.jp/