月夜

 二十二時を回った頃、妻が立ち上がり、キッチンに消えた。ことことと小さな音をたてながら、サンドイッチを作りはじめる。僕はやりかけの仕事に区切りをつけて片付けると、窓を開けて空を見上げた。金色の丸い月が煌々と照っている。空気は澄み切っていて、冷たい。
 僕たちは月を見るために家を出る。満月というわけでもない。月を見るための夜は、突然気まぐれに訪れる(ように僕には思えるが、彼女には彼女なりの理由があるらしい)。サンドイッチと温かい紅茶を入れた水筒を持って、手をつなぎ、二人で歩いてゆく。町が金色に染まっている。月明かりの中、彼女がはかなく消えてしまいそうに思えて、握る手の力をこめる。
 子供の頃はね、月なんて家からでも見えるし、わざわざ夜中に出かけるのなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたのよ、と彼女が言った。僕は頷く。僕も、彼女と結婚したときはそう思っていた。なんでもない日々を特別にするのは案外簡単なのよね、と言って、妻がゆっくりと僕の手を握り返した。<了>