訪ねる男

 小さな包みを胸に抱き、男は、どんな香りでも作り出すという調香師の住む家の門をくぐった。彼はこのために北の町からはるばるやってきた。七十年間の人生で初めて飛行機にも乗った。
広い庭には、さまざまな植物が茂っていた。種類の違う木々が一本ずつ並び、幹から樹液のようなものを採取する容器が結びつけてある。風が涼しげな甘い匂いを運んできた。顔を上げてあたりを見渡した彼はすぐに、大量のバラが咲き誇っているのを見つけた。風に香りがあるということを久しぶりに思い出し、ずいぶん遠くまで来たと今更のように思った。
 調香師は彼をあたたかく迎え、無数の小瓶が壁一面に並ぶ部屋に案内した。
 彼は座るなり包みを解いた。中から色褪せた赤い布が現れた。
「これは、亡くなった妻が着ていた服です。先日、部屋の整理をしていたら偶然出てきました。彼女がつけていた香水の香りがまだ残っています。でも、香りはやがて消えてしまうでしょう。その前に、この香りと同じ香水を手に入れたいのです。妻がつけていた香水が何という名前だったのか、今でも存在しているのか、私には全くわかりません。でも、あなたなら分かるはずです」
 調香師は、服を受け取った。目をつむり、まるで祈りをささげるかのように顔を近づけ、長い時間そうしていたが、
「残念ながら、この服にはもう、あなたが言うような香りは残っていません」
 と、静かに言った。
「そんなはずはない。今、まさにこうやって香っているのに」
 ひったくるようにして服を奪い、顔を押し付け、彼は安堵する。長旅のせいで香りが消えたわけではなかった。男の胸の中で、妻のまなざしや笑い声、あたたかな体温がよみがえる。こんなにもはっきりと香っているのに、彼はそれがどんな香りなのかを言葉で表すことができない。もどかしさに、歯噛みをする。
「もう一度、ちゃんと確かめてくれ」
「何度確かめても同じです。わたしにはその匂いを嗅ぐことはできません」
 きっぱりとした調香師の言葉に、彼は絶望して言葉を失った。
「でも、わたしが嗅ぐ必要はありません。なぜなら、その香りはあなたが死ぬまで消えることはないからです」
 調香師は微笑む。
「その香りは、服からではなく、あなたの記憶から香っているのです」<了>