世界

 そもそもの始まりはちっぽけな細長い生き物が地面に叩き潰されたような声で、世界よと呼びかけた時にうっかり返事をしてしまったことだった。その瞬間に、彼は世界となり、世界は彼となった。呼ばれた瞬間に世界は誕生したのか、それより前には存在しなかったのか、そして果たして彼は本物の世界なのか。そんなことを考えるのは私だけで、それからもたびたび彼は世界と呼ばれて返事をした。自分を呼ぶその奇妙な生き物を、世界はよほど気に入ったのだろう。その生き物は名を詩人といった。
 ある日、世界の家に人間が訪ねてきた。世界は退屈なんてしていなかったのだが、訪問者が珍しくて仕方なく、できる限りのもてなしをした。人間は、世界に世界よと呼びかけた生き物にそっくりで、奇妙な装置を抱えていた。なぜ俺の家が分かったのだろう、世界が不思議に思っていると、全員設置が規則ですから、と人間は言ってその装置を設置して帰っていった。そういえば、世界のもてなしには目もくれなかった。
 装置は時々大きな音をたてて世界を困らせた。その四角い装置がけたたましい声で泣き出すたびに、世界は慌ててあやしてみたり、しまいには怒って叩いてみたりもしたけれど、それは一向に泣き止まず。しかも、突然気まぐれに止む。止んでみると寂しいもので、もう一度泣き出さないかと世界は思う。さすってみたりもするのだけれど、装置はまったく気ままで、世界が忘れたころにしか泣き出さない。
 また別のある日、いつものようにけたたましく装置が泣き出して、世界は叩いてやろうと手を振り上げた。しかし、気が変わった。ふと手を止めて、その装置の頭についている奇妙な帽子をつまんで持ち上げてみた。その途端、音は止んだ。大きな取っ手のような帽子を世界はひっくり返して眺めた。泣き声は止んだけれども、その装置はまだ何かを言いたそうに世界を見上げている。世界は取っ手を耳に当てた。
 世界が何を聞いたのか、私は知らない。それ以来、世界は装置が音をたてても振り向かなくなった。最近は、あるものを待っているのだと言う。あるものって何? と私が尋ねたら、世界は笑って答えなかった。 <了>