小説家の言葉

 メールで、今発売されてる週刊朝日に、村上春樹が受賞したエルサレム賞の受賞スピーチ全文が載っていると教えてもらった。本屋で見つけられなくて、図書館で読んできた。
 村上春樹の小説は、昔好きだった。全部読んだ。全部読んだけれど、影響を受けすぎてしまうのが恐くて、“はまらないように”接した作家の一人。新しく出る小説は、期待しすぎてしまうのか、毎回がっかりしてしまう。昔すっごく好きだったけど、別れた恋人、のような、微妙な関係かもしれない。好きな作家として屈託なく名前をあげることはできないけれど、わたしに深く影響を及ぼした作家に間違いない。
 今、わたしは、小説家としての彼がとても気になる。彼の小説家としての行動や言動や小説にかける思いがとても気になる。スピーチを読んで、一部を抜粋してうまく伝える自信がないからしないけれど、ああ、この人のような小説家になりたいと強く思った。小説家は自分の言葉を使う専門家だ。こんな場所で、こんな状況で、彼は彼個人の言葉を使って彼個人についての話をして、聴衆に世界のこと、人間のこと、大きなことを伝えていた。
 ところで、世の中は借り物のテンプレートの言葉で溢れてる。丁寧語のテンプレートを鸚鵡のように繰り返す安っぽいサービス業がわたしは大嫌い。いらっしゃいませ、こちらでおめしあがりですか、ただいまこちらの新商品をおすすめいたしています、なんて。コーヒー一杯頼むだけにどうしてそんなに空っぽの言葉を聞かされなきゃいけないの。言いたいこと言わせてくれないの。愛想のない定食屋のおばちゃんの一瞥の方がまし。政治家の決まり文句も嫌い。魂のない言葉が、格好だけ取り繕われた空っぽの言葉が、複製され、溢れ返り、相手が誰であろうと構わずばらまかれ、押し付けられている。
 魂につながった本物の言葉は、小さくてもシンプルでも強い。
 きらら、今月も落ちました。残念。よくない癖が出てしまった小説だったと自分でも思う。もっと、わたしの言葉を語らなければ、と思う。