書き始めた、たぶん

 書き始めた、たぶん。たぶん、というのは捕まえたと思った物語の尻尾が引っ張ってるうちに木の根っこだったよ残念、ということがあるから。お尻が見えてくるまで、まだまだ分からない。
 去年のすばる文学賞受賞作を読んだ。携帯で書いたのだという。母親を殺して逃げ出しホームレスの仲間に入り…という話を痛々しい切実な描写で書いた小説。一読者としてのわたしはこの小説を選んで読みたいとは思わないけれど、書き手としてのわたしはその切実さに敵わないなあと思った。
 切実さということに関して、わたしはどうせ敵わない、と思う。やけくそでも諦めでもない。それでいいんじゃないだろうか、ってようやく思えるようになった。誰もが、ひりひり焼けついて重く心に残る小説ばかり読みたいわけじゃない。たとえば、それが文学的に価値が高いとしても、文学として力を持っていたとしても、小説が全てそうある必要がないんだろうなって思う。携帯サイトで小説を連載するようになって、読みきりの暇つぶしでほんの少しだけ、にやりとするそんな小説もいいなあと思うようになった。というか、わたしがそういうの読みたいときがあるし。もちろん、重いのも読みたいときもある。そういうときは、そういう作家を選んで読めばいい。作者の数だけ物語があって、自分に合った物語を選べるのが、小説のいいところなんじゃないだろうか。
 わたしが、内から湧き出る衝動を!!ってうんうん唸ってても、向き不向きがあるし。ないものは出ないし。(ある人は力まなくても出ちゃうんだろうし。)力んでも痔になるだけだし。力抜いて外にある物語の尻尾を追いかけて捕まえて、ちょっとしか見えなかった物語と話して心を通わせて、あとは、それをどうやったら魅力的に伝えられるか必死に頑張るだけ。わたしは「作者」じゃなく、「伝える人」でありたいのかもしれない。
 外の物語を代弁しているつもりが、いつの間にかその中に自分を滑りこませて、物語が自分そのものになっている、たぶんそれがわたしの書き方なんだろうな。未だにね、まだ自分の色は見えない。すっと透明で少しだけ現実とずれてて不思議で、でも真実を見つめている、そんな小説が書きたいなと思ってみたりはしています。