キャベツの芯

 キャベツの芯を水につけておくだけで、また食べれる葉が生えてくるという話を聞いて挑戦してみました。もちろん、知的好奇心からです。それに、小さい生えたての柔らかい葉っぱって、おいしそうじゃないですか。サラダにしたり、飾り付けたりできて、便利そうじゃないですか。決して、キャベツが買えないほど困窮してるわけではありません…!
 でも、生えてきたのは葉っぱじゃなくて花でした。季節のせい…? もともとのキャベツがもう育ってたせい? 食べると菜の花のような苦味のある味がするそうですが、まあいいや。このまま愛でることにします。

 ちなみに半分に切ったキャベツを数日置いておくと、断面がもこもこ盛り上がってくるのも、成長してるからだそうで。植物ってすごい。というか、もうあれだ、やつらが本気出して襲い掛かってきたら叶わない気がするよ。

 ところで、植物について描写したフランシス・ポンジュの詩が好きです。

 彼らにあっては、食糧や住居の心配はないし、互いに食い合ったりすることもないので、恐怖も、無我夢中の走行も、残酷な振舞いも、嘆きも、叫びも、言葉もない。彼らは、興奮や、熱狂や、殺害をやどす、副次的な身体、というわけではない。
 陽光の下に現れ出た時からしてすぐに、彼らは街の中に、あるいは大道に面して、店を構える。隣人たちのことなどまったく気にかけず、吸収という過程を経て互いの中に入り合うということもない。懐胎によって互いの中から出てくるということもない。
 彼らが死ぬのは脱水、地面への落下、というかむしろその場での萎縮によるのであり、腐敗によることは稀だ。彼らの身体のいかなる部位も、そこを刺されれば全個体の死を引き起すほど特に敏感なものはない。だが風土や生存条件に対しては、比較的に感じ易さの強い反応を示す。
 彼らは…ではない。彼らは…ではない。
 彼らの地獄は違った種類のものだ。

「動物相と植物相」フランシス・ポンジュ(阿部良雄・訳)より

 フランシス・ポンジュは植物を「書物」になぞられて描写したりもする。葉は言葉。一体、植物にとっての地獄って何だろう。

 植物とは、分析が行為と化したもの、空間における独創的な弁証法である。先立つ行為の、分裂による展開。動物たちの表現は口調による、もしくは、互いに消しあう身振りによって演じられる。植物たちの表現は、一回こっきり、書かれてしまう。書き直す手だてはないし、修正不可能。訂正しようと思えば、付け加えるしかない。書かれた、そして出現した、テクストを訂正するのだ、付録によって、以下また付録によって。しかし、彼らは無限に分裂するのではないと付け加える必要がある。おのおのに、一つの限界がある。
 彼らの身振りの一つ一つは、人間やその書きものの場合と同じく、ただ単に一個の痕跡を残すだけではなくて、一個の現前、手の施しようのない生誕を、彼らから切り離されてはいないものとして、残すのだ。

「動物相と植物相」フランシス・ポンジュ(阿部良雄・訳)より

 で、紹介しておいてなんですが、これ、あまり売ってないのです。双書・20世紀の詩人というシリーズで、セットでときどき入荷されるのだけど、フランシス・ポンジュだけすぐ売れていくと新古書店の店主さんが言ってました。わたしはヤフオクで買ったよ。

フランシス・ポンジュ詩集 (双書・20世紀の詩人)

フランシス・ポンジュ詩集 (双書・20世紀の詩人)

 カミュサルトルに絶賛されたという詩人。「物の味方」は、言葉で描写する図鑑のようです。引用した詩については、朗読をアップしています。