8日目

 昨日の日記に最後に追記しましたが、やっぱり日記を書き続けることにしました。情けないことばかり書いてしまうけれど、でも書かなかったらそういう自分の情けなさに向き合うこともなく過ごしてしまうから。
 悲惨な現実に向き合っていたら小説が書けないと悩んで、じゃあ、テレビとネットを消して小説に集中しようなんて思っていた。でも、現実に向き合いながら小説を書き続けるしかないんだと今朝ようやく覚悟が決まった感じがする。
 数年後、もし今苦しんでいる人たちが小説を読めるような状態になったとき、自分たちの苦しみを見てみぬふりしていた作家の言葉は絶対に彼らの心に届かない。彼らを癒すのは、表面を撫でる心地のいい言葉ではなくて、彼らと同じ苦しみまでたどり着こうと一生懸命に想像して、深く深く潜ってつむがれた真摯な言葉だけだ。今、目を逸らしていたら、わたしはきっとその深さに到達できないだろう。潜ろうともしないかもしれない。
 締切があって、続きを待っている人がいてくれるという状態が、わたしを小説家にしている。そうじゃなかったら、わたし、単に家にこもって1日中、パソコンに向かって妄想つづってる生活なわけで、平和なときならそれでもよかったけれど、こんな有事のときに一体わたしは何をやっているのだろうと思うよ。連載の締切があるなんて、本当にたまたまだ。書き下ろしの長編だったら自分の都合で筆を止めることができるかもしれない。でも、そのおかげで、わたしは自分が小説家であるということから逃げられない。小説家としてこの現実にどうすればいいのか考え続けなくてはいけない。だから、現実に向き合いながら、同時に小説を書き続けるなんて出来ないよなんて言わないで、やってみせますよ。やらなくちゃですよ。
 何だか震災以来、自分のことばっかり書いてる。情報発信や呼びかけや励ましや、そんな言葉も言えたらいいのかもしれないけれど、自分のことしか書けない。でもニュースや公的な言葉は数年後にはこんなこともあったねと標本のようになってしまうから、今は場違いでも生の言葉を書いて残しておこうと思います。
 亡くなった人もいる。大切な人を亡くして悲しんでいる人もいる。大切な人の消息が分からなくて心を痛めている人がいる。避難所生活で不自由で苦しんでいる人がいる。食料が届かず、原発の事故に怯えながら取り残されている人がいる。自分のことを省みず必死に救助活動をしている人がいる。寝る間も惜しんで働いている人がいる。停電に予定を狂わされながらも通常通り働いている人がいる。地震の影響で前々からずっと計画していたプロジェクトが白紙に戻った人もいる。テレビやネットの情報から目が離せず、生気を奪われていく人がいる。前向きに建設的な行動を起こしている人がいる。淡々と楽しく日常を送っている人もいる。
 一刻も早く<いくつもに割れて>しまったわたしたちが、また日々のささいなことに笑って幸せに暮らせますように。