7日目

いま、同じ日本語を使っているはずの人たちの間でも、地域によって、じぶんのおかれた場面によって、まったくちがう意味を持ってしまう。そのことに驚かないようにしようと思う。日本がいくつにも割れている。同じ「寒いですね」でも、ちがう聞え方になる。元気な側が想像力で補おう。
糸井重里 さんのツイッターより)

 想像力で補わなくては、と思っているのに、いつも足りない。考えて考えて書いた日記も、1日経てば足りなかったと思う。親しい人が現在進行形で被災地で怪我をしながら救助活動をしていたり、東京で毎日のように来る余震に怯えていたりする日記を読んでは、ああこんな文章じゃ駄目だと撤回したくなる。でも、ニュースを追い続けていると、平常どおり送れるはずの日常がままならなくなる。
 わたしの言葉は生命の危機が迫っている人の役には立たないことは分かっている。生命の危機にはないけれど不安でいるひとに何かしたいと思っていた。でも、どんなふうに書いたとしても、今、まさに生命の危機が迫っている人が見たら、どこか他人事でのん気に見える。刻々と代わる状況の中、昨日書いたものを今日見たら危機感があまりにないように感じる。そんな文章じゃ、命が危険にさらされている人たちに、自分たちのことは分かってもらえていないと、いっそう孤独な思いを与えてしまうんじゃないか。
 悩みながら書いていて、今日、ふと、こんなに<いくつにも割れている>日本で、誰をも傷つけない言葉を発することは不可能なんじゃないかと思った。
 心に癒しをというような言葉は、生命の危機にさらされてそれどころじゃない人たちを傷つける。危機を伝えるニュース画像は、今、平和に日常を送れている人たちを後ろめたさと不安で傷つける。同じ日本の中なのに何事もなく平和な日常を送っている人たちの様子は、停電と余震でストレスを溜めている人たちを傷つける。
 テレビやネットや広告は、もともと日本全国に均一に一斉に情報を伝える手段だから、発信する側もみんな戸惑っている。イベントの停止や様々な判断も、割れている日本の誰に向いたらいいのか分からなくて戸惑った結果。
 日記を迷いながらずっと書き続けていたら、そんなことが分かってきました。日記を書くのを少し休んで、次の回がある程度形になるまでは、しばらく小説に集中しようと思います。(…って、昨夜書いたけれど、朝起きて読んだらやっぱり何だか違う気もした。現実に向き合っていたら小説を書けないなんて、否応なしに飲みこまれている人たちのことを考えていないな。現実と向き合いながら書かれたものじゃないと、言葉は伝わらない。テレビとネットさえ消せば悲惨な現実から逃げてしまえるから、自分が逃げないようにするためにも、やっぱり悩みながら日記を書き続けたほうがいいのかもしれない。悩んだら立ち止まって、疲れたらときどき休みながら。)