「京の発言」が発行されました

 長らくお待たせしましたが、わたしがエッセイを連載させてもらっている「京の発言 14号」が発行されました。作家デビューしてから初めての号だったので、単行本の宣伝も載せてもらいました。

 京都を舞台にした文学をとりあげ、実際に現代の地を歩き、思いをつづるエッセイ「古都の影」。今回は、谷崎潤一郎の「細雪」を取り上げました。てくてく京都の方には短いバージョンがアップされていますが、この本の中では原稿用紙10ページ分の長編エッセイになっています。大きな日常に流されていくこと、そこに楔を打っていく行為について、書きました。
 そして、この号をもって「京の発言」は最終号となってしまいました。発行時期が延び延びになることを除けば、大変真摯な良い雑誌でしたのに。残念です。
 はあ、連載が一つ終わって、肩の荷が降りたようなさみしいような。そういえば、学芸カフェの連載も今、最終回の12月分を執筆中で、またこれはこれで、いよいよ終わりなんだなあという肩の荷が降りたような、さみしいような気分です。
 毎日毎日小説に関することを、何かしらせっせとやっているはずなのに、足を止めて振り返ると、わたしはこの1年、何もやっていないんじゃないか、というような虚無感に襲われる。それはきっと、小説というものが0から作り上げる目に見えない代物だからだ。昔は、書いた端からホームページにアップしたり友達に見せたりしていたけれど、どこかから依頼されたり、プロジェクトの一貫として書いているものは、書きあげても、いつ人に見せれるか分からない。何ヶ月も日の目を見ることがない。一度書き上げたものでも没になったりするし、何度も推敲を重ねて前に進んでいる気もしない。
 まあでも、仕事というものは、こういうものなのだと思う。すぐに自分を小さく満足させられる趣味と違って、たくさんの人とかかわって、たくさんの人の心を動かすことができるかもしれない。できないかもしれない。大成功することもある。せっかくの努力が白紙になったりすることもある。
 というのが1年目の実感で、振り返っても振り返っても、ぽっかり空いた穴しか見えないのは精神衛生上大変よくないので、対策を考えた。毎日、業務日誌をつけよう。そうしよう。iPhoneで。


iPhoneアプリ 瞬間日記)

iPhone使いたいだけじゃないか(そのとおり!)。
 でも1年以上蓄積したい記録って、手帳じゃ間に合わないんだよね。あと、電車とか揺れてても記録できるのがいいんだよね。パソコンに向かうと疲れるけど、ひょいっとiPhoneでメモれるのはいいんだよねえ。
 これで毎日の執筆記録をつづり、振り返っても虚無に教われることなく、わたしがんばってる、と自分に言い聞かせ、一歩ずつ前に進むことができることでしょう。くしくも、自分がエッセイで書いたこととつながっているな。
 

 普段は忘れていたけれど、こんなふうに思い出してみれば、毎日の一瞬一瞬は、悩んだり感動したりして、とてつもなく大きな出来事だった。なのに、日々をこなしていくうちに、それらは、だんだん、何でもない出来事に変わっていった。日常が、わたしをごうごうと押し流していく。尖った鋭い出来事も日常に洗われているうちに、角が取れ、丸く小さくなっていく。
 日常とは何だろう。
 日常とは、しなくちゃいけないことをこなし続ける日々のことだろうか。だから、普段は思い出を抱えていると身動きが取りづらくなるから、脇に置く。そのうちに、日常は思い出を押し流し、角を丸くし、小さく滑らかにしてしまうのだ。
(「古都の影: 第4回 京都の桜 / 寒竹泉美」より抜粋)

 今は更新が止まっていますが、「古都の影」の全文も少しずつサイトにアップしていきます。が、ぜひ雑誌の形で手に入れたいという型は、購入方法こちらです。バックナンバーもお問い合わせください。(わたしのエッセイが掲載されているのは11号から14号までです)