健全に生きたいだけ

京都駅が最寄り駅になって、よくJRを利用する。走る距離が長いからか何なのか、JRはよく遅れる。天候や信号機の点検、踏切の安全確認、etc..

でも、月に一度は人身事故のためというフレーズを聴く気がする。
この曖昧なフレーズは、わたしの思考を停止させる。

電車が遅れたら遅刻するわけで、アナウンスを聞いたら、くそー!迷惑な!って思う。思ってしまう。でもそれが、もし、子供が偶然線路に入って電車にひかれた人身事故だったら、自分の予定が間に合わないことよりも、その子供に思いを馳せていたい。苦悩の末、飛び込んだ自殺者のせいだったら、電車を選ばなくても…と思いながらも、やっぱりそのせっぱ詰まった心境と人生に思いを馳せていたい。何の関係もない人の死が電車というものによってわたしの人生に触れてかすめさったことを、遅刻するから迷惑だ、の一言で片づけたくない。そんなの生き物として不健全だ。

でも、誰も別に死んでなかったり、いたずらで石置いただけとかだったら、思う存分、ちきしょー!迷惑なやつだ!と文句言いたい。

煮え切らない人身事故という言葉に、行き場のない思いが生まれ、それを飲み込む。こんなことを続けていくと、不感症になってしまいそう。

「30代と見られるスーツを着た男性が飛び込み自殺をし、その遺体の片づけのために、電車が一時間遅れています」

そんなアナウンスが駅に流れる。止まった電車に閉じこめられた乗客たちの耳に届く。それじゃダメなんだろうか。

たぶん、世界が変わる。
死はニュースの中にあるんじゃないくて、今生きてる世界の、すぐそばにいつもある。そういう世界で生きていることを思い出す。いやな気持ちになってもいい。悲しんでもいい。聞かなきゃ良かったと思ってもいい。迷惑だから死ぬな、と文句を言ってもいいかもしれない。俺らの時間を返せ、と生きてる人は怒ったらいい。もし車内に飛び込み自殺しようとしてる人がいたら、きっと、その様子にいたたまれなくなって、思いとどまるかもしれない。

などと思いながら、帰りは阪急で帰ります。