足りない自信

 ふと本屋で村上春樹のインタビュー発見。「COURRiER Japon」という雑誌で、外国人記者のインタビューに答えたのを和訳した記事でした。海外メディアを通して伝えられる春樹の言葉って、何かこう、外人みたいです。上手く言えないけど。きっぱりはっきりした感じ。それは彼の海外暮らしのせいなのか、彼の言葉を外国語に訳してそれを日本語に訳すからなのか。まあ、いいけど。小説では彼の言葉そのものを読めるわけで、それは日本人だけの特権ですけれども。
 彼は小説を書くとき、まるでジャズのセッションのように即興性を重視するのだそうだ。執筆をジャズのセッションにたとえたのは彼ならではだと思う。彼の物語はそれゆえ、とても、ぴちぴちと生きている。でも、それゆえに、ときどきは、小説として、パッケージ化された作品として、つまらない着地をすることも、ある(と、わたしは思っている)。
 春樹とはスタイルが違う作家として、三島由紀夫の話が出ていた。三島は、鮮やかな着地に向かって書く作家だと思う。たぶん日本では、きっちりとしているもの、隅々までコントロールされているもの、それを文学と言うのだと思ったりした。三島は文学で、太宰は文学と認められなかったように。
 どこに辿り着くのか分からない物語を書き続けるのは、本当にしんどい作業だ。プロットを作って、毎日何枚ずつと書き進められる人もいるだろうけれど、わたしは小さな懐中電灯を持って真暗闇を進んでいるようで、先が見えない。書いたら、その分だけ、懐中電灯の明かり分、先が見えてくる。違う方向に迷い込むかもしれない。どこで間違ったのか分からなくなって、歩きたくなくなるときもある。いっぱいある。
 ジャズのセッションのように書くという春樹の言葉は、その場で生まれてくるという意味ではわたしと同じだったけれど、もっと何だか勢いがあって華々しくて格好良いと思った。
 そんなふうに書き続けていくのは不安で不安定な作業だから、自分は必ず書き上げられるという自信が必要になる、長距離走は、その自信を自分に与えてくれる、と、春樹はさらに語る。
 わたしに足りない自信はこれなんだろうな、と思う。賞の予選に通ったとか、人が面白いと言ってくれたとか、そんな外部の上っ面の自信じゃなくて、今、自分が取り組んでいる物語に生命を吹きこんで世に送り出せる自信。それは、純粋に自分だけの問題だ。誰も助けることはできなくて、誰も損なうことができない自信。
 とにかく、書ききらないことには、先へ進めないなあ、と思う。