大学の図書館

 二階の大きな窓のすぐ外にはポプラの枝が見える。机にうつぶせて空を見上げるわたしに、ゆらゆら揺れながらちゃんとしろよと迫ってくる。いつもは学部の学生で埋まっている図書館だけど、今日は珍しく空いていた。今日は、何月だっけ。何の時期だっけ。遠い記憶を掘り返す。ああ、きっと今は春休みだ。試験も何もない、平和な休み。
 十年間大学にいたけれど、長期休みが関係あるのは学部の三年間だけで、あとはひたすら実験の日々だった。正月やゴールデンウィークは、教官たちが休むから気を使わず実験ができるというくらいの違いはあった。
 あの日々は何だったのだろう。毎日毎日夜遅くまで、何のために頑張っていたのか。何に向かっていたのか。たぶん問われれば、研究者になりたかったと答えるけれど、本当にその覚悟があったかと重ねて問われれば、なかったと今は即答できる。ただ、そこにいたから、そこのルールで目指していただけだったのかもしれない。もしわたしが、どこかの会社にいて、営業成績で上位を目指すことがそこのルールだったのしたら、わたしはそのルールに従って営業成績を伸ばすことに腐心していたかもしれない。
 少しずつ選択してきたつもりだけど、その選択は見栄えのよさと体面を保つという前提の中でしか行われない限定されたものだった。
 昨年の3月に博士課程を修了した。研究者コースを降りた。本気で小説家になろうとした。ようやく自分で選んで、それから1年が経った。今までに比べて小説をたくさん書いたわけでも、出版社に売り込みをしたわけでも、何か目覚しい活動や成果を成し遂げたわけでもない。満足はしてないけれど、でも不満でもない。まずはここから、と思っている。
 この一年は何だったのかと聞かれたら、たぶん、わたしの身にべったりとついて離れなかった余計なものを落とすための一年だった。何者でもないというところまで落ちるための一年だった。わたしの選んだ道は、まだこれから。立ち上がりは遅くても今に実ると確信している。

 今度こそ、物語を捕まえた。書き始めたら、ひたすら歩き続ける。自分の部屋やひとところにいると書き続けることができない。一シーンを書き終わると、その場を立ち去り、再び次の話が出てくるまで、もしくはエネルギーのようなものが満ちるまで歩きつづける。知っている誰かに会うとわたしはわたしになってしまう。ひとところにいると、汚い字で紙に文字を書き散らしているコーヒー一杯で粘り続ける不審な女として認知されてしまう。わたしは、脱皮していく。次々抜け殻を落としながら歩き続ける。どこに行くあてもない。わたしという生身の存在をこの世界から消すために、半透明になって歩き続ける。