降り出す前の雨の匂い

 満開の梅の花を見ると明るい気持ちになる。春を感じる。でも、あたたかさに頬をゆるませていると、強い風が花びらを吹き飛ばし、再び寒さを運んできて、泣きそうになる。浮いたり沈んだりを繰り返しながらも、確実に進んでいくこの季節が好き。何の根拠もなく、新しいことが起こる予感がして、静かに心が浮き立つ季節。
 午前11時半。外を歩いていたら唐突に雨が降り始めた。さっきまで晴れていて、今日はあたたかいと思っていたのに。空を見上げると、日が隠れ、黒い雲がむっつりと沈黙していた。春の雨は容赦なく冷たい。通りの人間が走りだす。学生らしき青年が身を屈めて自転車をこいでいく。でも多くの人たちは、手に持っていた傘を空に向かってひらりと開く。全く何て用意がいいんだろう。
 冗談のように雨脚が強くなる。わたしは咄嗟に、店の軒下に入る。
 そこはワンコインでビニールの傘を買うことができるお店だった。早足の人々が怒ったように店の中に入って、傘を買う。店から出てきた彼らは、わたしの横に立って空を睨むと、戦いに挑むように傘を開き、去っていく。次々と、現れて、去っていく。雨宿りなんて悠長なことをしている人はいなかったから、わたしは何だか意地になって軒下から動けなくなる。そして、斜めに走る雨を眺めながら、きっとこんなふうに、木の陰で雨がやむのを待つのだろう、遠い国のけものたちを思い浮かべてみる。
 雨が降り出す前の匂い、と言った人がいた。そういうものを感じる小さな余裕のようなものが欲しいと思った。濡れて初めて、わたしは、雨が降っていたことに気がつく。
 やがて、強い風が青空を運んできて、雨はすっかり降り止んだ。