物語の生み方

 四月以来、新しい長編小説を書いていない。そろそろ半年が経つ。今までだって、年に一作長編が書けたらいい、というペースだったので、実質的には今まで通りなんだけど、今までは書きかけたり、やめたり、複数の物語をいじったり眺めたりしながら、何かしら小説の話をしていた。し続けていた。でも、わたしは四月以来、新しい長編を一つも育てていない。まったくの空白状態。
 何をしているかと言えば、最近はもっぱらカメラに夢中で、それを知っている友人から、あなたは小説から逃げている、と言われた。カチンと来て、脊髄反射的に反論した。机の前で書けない書けないと嘆いているより、新しい表現ツールで新しい世界に飛び込んで物語を生む土壌を作るんだ、なんて、立派な理由で自分の行動を正当化した。
 でも、本当にそうなんだろうか。自分の言葉が自分を突き刺し続ける。口がうまくなって、ごまかしが上手になって、本当の自分が見えない。いや、それだけじゃなくて、わたしは未だに、物語の生み方が分からない。生まれてしまってからのことは分かる。でも、どうやったら生まれるのか、分からない。力を入れればいいのか、抜けばいいのか。考え続ければいいのか、忘れて空白になればいいのか。前者ならわたしは逃げてることになる。でも、それをずっとやってきて、行き詰まって、わたしは、今は(わたしの場合は)後者じゃないかと思っている。でもそれも、単に楽になりたい言い訳かもしれない。
 当たり前のように溢れてて手を伸ばせばいつでももぎとれていた物語が、年を取るとともに目の前から消えていった。その代わり、苦心して出会えた物語は、子供だったわたしの生んだものよりもずっと実用的だ。そう、実用的。幼稚さや甘えが排除された、より多くの人に届く物語。
 力を込めすぎて焦りすぎると物語の捏造をしてしまう。夢中で追いかけて完成させても、嫌らしいものにしかならない、ニセモノの物語。かといって、力を抜きすぎると何も生まれない、のかもしれない。
 12月末の写真展までは、写真を体当たりでやっていこうと思っている。小説のために。物語を生むために。それが間違ってたとしても、少し遠回りするだけ。遠回りしまくってここまで来ていて、今更半年の空白なんて怖くないと言い聞かせながら。
 本当は怖くてたまらないんだけど。小説家になるとあちこちに言い触らすことで、今の生活が許されている。早くなれ、もしくはさっさと諦めてまっとうな生活を歩め、というプレッシャーを感じてないわけはない。
 写真展が終わったら、カメラをお休みして3月末の新人賞応募用の物語を待つつもり。空白と向き合って苦しんで耳を澄ますつもり。そこに何かがある、と思う。
 せめてそれまで、誰が何と言っても貫く、頑なさを。