孤独なランナー

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

 村上春樹のエッセイ。「走ることについて語るときに僕の語ること」。レイモンド・カーヴァーの短編集のタイトル“What We Talk About When We Talk About Love”を原型としたタイトルだそうだ。しかしそれにしてもあなた、翻訳家でもあるんだからもうちょっと気の効いた日本語に出来ないものかね…と思ってましたが、読み終わると何だかこのタイトルの意図が分かった気がしました。
 わたしは村上春樹作品は小説は大抵読んだけどエッセイをたくさん読んだわけではない。だから知らないだけかもしれないけど、こんなに率直に自分のことを語っている村上春樹を知らない。彼が小説の中で得意とする気障な言い回しや隠喩や暗示めいた不思議なキャラクターは出てこない。もちろん、小説じゃないんだから当たり前なんだけど、何だろうね、初めて生身の彼に触れた気がしました。
 学生結婚をし、卒業してジャズ喫茶をやり、初の小説で群像新人賞を取り、「ノルウェイの森」でベストセラーを出し、外国で執筆をし、出版社の注文に応じてあくせく書かなくても自分が書きたいものを書き、本を出せば必ず売れる。ああもう、才能ってずるいや…って思っているのはわたしだけじゃないはず。でも本当は心のどこかで分かっている。彼が単に才能だけで口笛吹いて楽々書いているわけじゃないってことを。でもそれを認めたくない気持ちがある。自分より優れた人を見ると、あれは違う人間なんだと除外して努力の足りない自分を守ろうとしてしまう。このエッセイはあくまで「走ることについて語る」エッセイなのだけど、走ることについて語ることで、彼自身のことも雄弁に語られる。彼が日々どんな調整をして、よい小説を書くということを第一優先事項にするために自分を律し、何を目指しているのかがひしひしと伝わってくる。ジャズ喫茶の経営だって趣味の延長で楽々やってたわけではなく、朝から晩まで働きづめに働いて、店を閉めてから小説を書き、あまり得意でない人付き合いも商売のために頑張って、借金を抱えて…というエピソードが書いてあって、何だか泣きそうになった。ああやっぱりと打ちのめされるような気がして、同時に何かから自由になった気がした。
 ただそのままの姿をそのまま語る。飾らない事実を語る。その決意が、ぶっきらぼうなこの直訳タイトルに現れているような気がしました。
 マラソン個人競技で、誰かと勝ち負けを争うというよりは自分自身との戦いなのだということはよく言われることだけど、この本を読んでいるとそれがひしひしと伝わってくる。そしてそれは小説も同じだ、と春樹はきっぱりと断言している(僕の場合というエクスキューズつきで)。わたしもそう思う。小説を書くのはとても孤独な戦いだ。春樹がその孤独について語る。一人じゃないと勇気付けられる。