難産ですが

 本物のシーンが一つ書けたとき、その中には全てが内包されている。なぜそんなシチュエーションになったのか、なぜ主人公がそんなことを言ったのか、主人公はどんなふうに育ったのか、相手がどう考えているのか。そのシーンを手がかりに考えていく。全ての答えが既にある。だけど考えてもどうしても答えが見えないとき、何か別の設定が邪魔している場合が多い。物語から自然に生まれ出た設定やエピソードじゃなくて、作者のわたしが人工的に付け加えてしまった設定が混じることがよくある。調子に乗ってセンセーショナルなエピソードを付け加えたり、知識を見せびらかしたかったり、自分をよく見せようとしたり、プライドが邪魔したり。そういう動機から生まれてしまった偽者の物語がこっそりとあちこちに潜んでいて、本物の物語の成長を妨げる。一度書いてしまったシーンや思いついてしまった設定は、なかなか手放したくないのが人情というものですけれども。それだといつまでたっても完成しないので、一回えいやっと伐採しまくるのですよ。全部書き出してね。書きたいこと、設定、エピソードを紙にメモとして書き出す。その中で本物の物語の芽を見つける。それは大抵が短い言葉で表される些細な言葉だったりする。本物の物語の芽を見つけたら、その成長に必要なものだけを残し、残りは全部刈り取ってしまう。森は広々とした草原となり、物語の芽は光を浴びて成長し始める。
 なんて作業を今朝やって、振り出しに戻った感じ。でもまだ進まないってことは、まだまだ大事に残している偽物の物語が潜んでいるってことだ。3月末まで残り数日…と考えたら焦ってもいいんだけど、なぜか焦らない。別の新人賞に出してもいい。わたしの作風と相性が一番いいのは3月末のすばる文学賞ではないかと思うので、出したい気持ちはやまやまなのだけれども。でも間に合わなければ他の賞でも受かってみせる。この物語を信じている。
 ところで、先週の土日で旅行に行ってきました。丹後の方に。温泉にも入った。女湯の裸を見るのが好きです。わたしが普段目にする裸ってのは大抵がエロスや美によって演出された体。体を晒す方もより美しく、よりエロティックに、なんて意識を持っておめかしされているわけですけれども。温泉などでだらだら晒されている体は、すっぴんなわけで。そこにエロスは介在しない。美もない。ただ裸がある。乳房が大きい人も小さい人もいるし、痩せてる人も太っている人もいる。中年の女性の腹の周りに、だぶだぶと脂肪の段が三段ついてる腹を見てたら、生きることについて思いを馳せてしまう。熊のメスの順位は子連れメスが一番で、まだ子を産んでいない若いメスは最下位で、餌を取る順番も順位ごとにきっちり決まってるというエピソードがあるんだけど、人間だって職業やら社会的地位やら金やらを脱ぎ捨てて裸になってしまうと、子を産んでだぶだぶと大きな体を揺らして笑っている熟したメスにわたし生き物として到底敵わない、と思う。
 美しさやエロスが介在しないと、どこか滑稽で、だからこそ切実に「生」そのものである裸。
 わたしこの物語で、まだ脱ぎ足りていない。