会いに行く

 こういう日を小春日和というのか、いやもう3月だからむしろ春なのか。緊張しながら待っていた日は、真っ青に晴れて清清しい天気になりました。花粉日和ですか? わたしは花粉症ではないので、深呼吸しちゃうぜ。すーはー!ああ清清しい!
 今日は、陶芸家の工房を訪ねて時間を作ってもらっていろいろなお話しを聞かせてもらって帰ってきました。居心地がよくて長居してしまった。茶をたててもらって作品の椀でごちそうになった。ううん、贅沢。長居しなくても、一時間単位で気持ちを切り替えるような仕事じゃないし、一日の流れや数日間に渡る流れがあるだろう。だから、実質的にわたしが居た時間以上の時間を頂いたのだと思う。自分の作品を作るために、人の作品を作る時間を頂く。そうまでして作りたいのかと問われたら、迷わずわたしは頷く。じゃないと、こんなことしない。そうまでして作る価値があるのかと問われたら、少なくともわたしはそう思っている、と答える。プレッシャー!プレッシャー!圧で押し出さないとなかなか出てこないんで、自分でどんどん追い込むのです。
 さて本題。この窯へお邪魔させていただきました。
「陶芸の思想 -穴窯・臥翠窯-」
 あれこれ調べていたときに、このブログにばったり出会い、まず写真の作品を見て「お!」と思って読んでいたら面白くて面白くてぐいぐい引き込まれました。彼がやっている穴窯というのは薪で焚く窯です。このブログに出会うまでのわたしの薪で焚く窯のイメージは、山伏みたいな神がかった浮世離れしたおじいさんが大量のお弟子さんを率いて、炎の神よ我に力を与えたまえーみたいなイメージ。どんなやねん。んでもって、俺は何も語らん、作品が全てを語るのだ。どどーん。みたいなイメージ。
 だけどこのブログを見たらわたしと一つしか違わない方。窯を一から築いていく様子が詳細にレポートされてるし、試行錯誤を重ねてる様子も、陶芸家としての信念も雄弁に綴られている。なんかもうわたしが陶芸家の小説書かなくていいんじゃないだろうか。とかいう思いを打ち消しつつ、本物に負けない物語を書かなきゃいけないなあと、またプレッシャー!
 穴掘ってレンガ積み上げて窯作って、近くの粘土を彫ってきて成型して、近所の木を薪にして数日間燃やし続ける。そうやって出来た作品だということはブログを通して知っていた。だから、仕事場に足を踏み入れて真っ先に視界に飛び込んできた作品たちのあまりの美しさに何だかうまく言葉が出てこなかった。薪が灰となって降り注いで炎に溶かされガラス質の自然の釉薬になる。それは知識。でも実物を目の前にしたらその色合いや深みや不思議な明暗に引き込まれてしまった。人の手の入っていない森の奥のような深遠な緑色は神聖な気すらした。釉薬の下から覗く土の味わいが、ほっとさせる。何だかとても懐かしくて親しい。
 穴掘ってレンガで薪で土だよ? それがこんなになるなんて。何気なく入った洞窟が素晴らしい鍾乳洞があったみたいな感じ。ふと見上げた空が一面、夕日で金色に染まっていた、そんな感じ。人が作った作品なのに、自然の美の出会いがそこにあった。
 気合入れて書いてみました。…お邪魔している間中、「なんかかわいい」というアホな感想しか言えなかったので無念。ほんとお前何志望だったけ、と言いたい。でも!かわいいって最強で、何かいい感じで好きな感じで自分のものにしてみたいという思いが詰まった語です。〜な感じって…。一昔前の女子高生か。まあそのとおりだけど。いや、二昔前くらいか。
 初窯の作品を頂いてしまった。わーい。感動。陶芸家を書こうと決めたときから、ずっとずっと自分で陶器を手に入れて使わないと本当のよさは分からないと思ってた。思ってたのだけど、最初の一歩が踏み出せず、未だに作家の作品を持っていなかった。念願の作家ものだー!初所持ー!もちろん作品それ自体、いいなあと思うし、作品は作品だけで評価されるに越したことないんだろうけれど、これがどうやって作られてどんな方が作っていてどんな思いで作っているかを知ってしまうと、それが詰まった作品は、一層いとおしい。物語が詰まっている。帰る間中、ずっと見つめては、にやにやしてた。
 さっそくお花屋さんへ。チューリップとか、どうかな。洋風の花だけど案外いけるかも。

 鮮やかな緑や可憐なピンクと調和する。物を入れるための作品は、物を入れると変化するから面白いなー。ちなみに我が家、土壁。普通にアパートなんですけども。よく合うね…。ちなみに葉っぱ、モーに齧られました。この草食動物め! 猫が齧っても重心が安定してるので倒れないというメリットを見つけました。そんなメリット…別に要らないか。
 この恩は小説で返せるとかそういうもんじゃなくて(小説なんて興味なければお返しでも何でもないし)、これからもわたしが真剣に表現者であり続けることで返していきたいと思います。

 さてこの臥翠窯では、まだ作品は売っていないそうです。納得できるものが出来てから、ということ。希少な穴窯の作品。コストもかかる。良いものはウン万、ウン十万する。そういう穴窯の世界の中では比較的安く売ることができるのだそうだけど、やっぱりわたしは8000円の食器か8000円のワンピかっていったら、ワンピース買っちゃうよなあ…と思いながら聞いていた。たとえ、その陶芸作品が8000円どころじゃない価値があってそれ以上の手間暇コストがかかっていたとしても、なんて。でも、一つもらってきて家に飾ってみて少し何かが変わった。自分の中の価値観を見直すきっかけになった。
 本物に囲まれて暮らすということ。
 本当は自分自身がその道を究めていいものを作り出してそれを使えれば一番いいんだと思うけど、何もかもそういうわけにはいかない。自分が極めれるのはせいぜい一つの道くらい。でもその道を究めようとしている誰かが精魂こめて作ったものを自分のものにする贅沢は、自分自身で究めることの次点に匹敵するんじゃないか、なんて思いました。自分を着飾って美味しいものを食べるのとはまた別の、人生の贅沢がそこにある。もしかしてすっごい贅沢なんじゃないか。そしてそれはただの贅沢じゃなくて、自分自身の道を究めることにも繋がっていくんじゃないか。この日記で紹介した川端康成がしてたことってそういうことなんじゃないかな。 川端康成は古美術品が好きで好きで、それを手に入れるためには借金もいとわない。ノーベル文学賞を受賞したときはその賞金をあてにして賞金の5倍くらいの作品を買い込んだとか。そして買った作品は、大事にしまうのではなく、執筆の間にぼんやり眺めたり、撫でさすったり、抹茶椀は客人が来たら使用したり、と使ってこその美術品だったらしい。川端康成がしてたことって彼自身の創作にも絶対繋がっている。心から美術品を愛してた彼は、小説のためなんて考えもしなかっただろうけれど。たぶんね。そしてそこがいいんだろうね。
 次は買いに行きたいです。

追記:チューリップを猫が食べたら駄目らしい!葉っぱ一枚でも中毒死するって。おいおい。まだ死んでないぞ…。チューリップ…トイレの棚行きです(齧られない唯一の場所)。次は猫草でも生けてみよう…かな…。