小説を書くのは別の人生を生きること

 3月末のすばる新人賞応募に向けて、今、陶芸家の話を書いてます。数ヶ月前からずっとずっと書いては消しを繰り返し。人に話せば何で陶芸家なのと言われるんだけど分からない。こちらが主人公に聞きたいよ。何で陶芸家なのさ。しかもどんな作品を作りたいのか、この後に及んでまだ分からない。電気窯で製作している陶芸家の方に会って話を聞いたり、資料を調べたり、ネットを見たり、実際に陶芸教室に行ってみたりしているけれど掴めない。都会の一室でも置ける現代技術を駆使した電気窯なのか、薪を使ってレンガで築いた穴窯で自然釉の妙を追求するのか。食器を作るのか、オブジェを作るのか、はたまた陶器アクセサリーも捨てがたい。陶芸家をやっていくということは決めている主人公なのに、どんな作品を作るのかまだわたしに見えてこない。それってまるで今のわたしみたいだなあと思います。これを書ききることができたとき、何で陶芸家なのという答えが分かるかもしれないし、そしてどんな小説家になりたいのかが見えるのかもしれない。
 去年も何で20才の男の子なのと言われながら、20才の男の子の話を書きました。何でだろう、分からない。分からないものほどきっとポテンシャルは高いのだと思う。
 一度、自分にもっと近い境遇の主人公を書こうと思って、院生の話を書いて12月末の賞の締め切りに合わせて完成させた。でもそれがとても嫌なオーラが出てた。嫌汁が出てた。ところどころに作者の自意識のような醜いものがべたべたついてた。これは駄目だと思って、寝かしておいた。3月末に向けて何を書こうかと思って、このファイルも開けて読み直したら、すっかり死んで腐臭を放っていた。あーあ、やっぱり入ってなかったんだ、魂。
 一度書いて中断してた陶芸の話はまだまだ何になるか分からない小さな細胞塊のようなものだったけれど、それでも生きていた。これに賭けることにした。
 小説を書くのは別の人生を生きることだと思う。自分と違う境遇の主人公を書くには、ものすごく労力がかかる。手間暇かかる。想像力も創造力もいる。だけどわたしは、なるべく自分と違う人生を生きるのが気持ちがいい。自分と違う人生の中だからこそ、今まで知らなかった自分の魂がのびのび出てくる気がする。日常という強固な檻がわたしの魂を捉え閉じ込めている。引き出すためには、少々手荒な方法が必要なのかもしれない。右も左も分からない未知の人生に。そこで生きてみて初めて分かることがたくさんある。

 さて、間に合うかな。間に合わせるんです。なんとしても。