奈良でシャガール

 時系列めちゃくちゃなんですけども。11日に奈良の県立美術館でやってたシャガール展を見てきました。シャガールが特に好きというわけでもなく、というか言われるまでそれほど意識したことなかった画家なんですけども、シャガールが好きで福岡からわざわざ見に来た友人につきあって見にいったのです。

 ああ、愛の画家シャガール…!シャガールの絵を見ていると、心が浮遊してふんわりとあたたかくなる。彼は恋人たちを描き続けた。彼の人を見る目は優しい。幸せな光景を描いたからといって、見た人が幸せになるわけじゃない。見ている人が幸せになるってのは、すごいことだと思う。彼は彼の描くものを描いたんだなあと思う。90過ぎまで生きたと聞くだけで何だかほっとしてしまう。人の寿命とかほっとけって感じだろうけど。芸術家って非業の死を遂げるってイメージが強いからさ。よかったね、と思ってしまう。ほっとけって感じだろうけど。でも、90才過ぎてもまだみずみずしい感性で幸せな恋人を描き続けていて、その絵を目の当たりにして、言葉にならない感動を覚えました。どーん!みたいな。

 ただ幸せとかラブリーな絵ではない。背景とか色合いとかむしろ悪夢のような暗い奇妙な感じで、でもその中にぽっと光輝くように浮かぶ恋人たちは、小さな小さな世界で幸せを噛み締めて満ち足りてて、見ているこちらまで満ち足りた気持になる。

 よかったなあ…という絵の余韻を残しながらショップで好きだった絵の絵葉書を買いあさったんだけど、やっぱり当たり前だけどつるつるした印刷からはあの温かさが感じられない。その絵葉書を見て、本物の絵を思い出して、本物を前にした感動を思い出すことはできるから買ってよかったとは思うけど。この葉書だけを人に送っても感動は共有できないんだろうな。

 美術品って今までは美術館で見るものって思ってたけれど、以前日記に書いた川端康成が古美術を自分のものにして、触ったり眺めたり文鎮代わりに使ったりしながら、その芸術品と対話していたということを知って以来、自分のものにするということに興味が出てきて、シャガールの絵の横の「個人蔵」という説明書きを見ては、いいなーいいなーとか言ってました。一人の芸術家が魂こめて作った作品を自分のものにするってすごい贅沢なことだと思う。うん、もちろんわたしなんぞに買える値段ではないだろうがな。うーん、絵とか書とか何か飾りたい!その前に部屋を片付けよう。ていうか、わたし、自分の作品作れってば。

 小説って不思議だよね。絵とか書とかはこの世に一つしかないけれど、小説は中身を売るわけだからいくらでも増殖できる。歌だってCDという手があるけど、本当の歌はその人の口から出たその瞬間のものが本物だと思うし。いくらでも増殖できて磨り減らない、それって小説というジャンルの強みだろうな。

 あ、でね、ごめん。シャガール展は16日まででした…よ。はよ言えって…ね。すんません!

 久々に訪れた奈良はなかなかよかったです。京都に移り住む前に一度行ったことがあるけど、京都に住んでからはご近所なのに(だから?)一度も行ったことがなかった。美術館のあとは国立博物館で仏像いっぱい見てきました。お寺さんだと観光客がいっぱいで落ち着いてまじまじと見ることができないので、こういうところで静かにじっくりと仏像を見れるのは本当よかった。神を想像する人々。有り難かったり、恐かったり、優しかったり、超越してたり。こんなにすごいものが作ってしまう信仰のパワーってすごいな。

 もっともっと熱くて確固とした動機をわたしの中にも育てなきゃ。
 奈良よかったー。禅料理とか京都で食べるより安くておいしいし。鹿とか歩いてたら普通に興奮する。鹿が立ってたら花札なのに。おしい。