能って大掛かりな朗読じゃないか

 毎年大学のイベントで能をタダで鑑賞できるのです。大学生がやってる能とかじゃないよ。ちゃんとしたやつ。ちゃんとどころか人間国宝が二人も…!(白目) はあ、本物を見れるのって贅沢なことです。京都来てよかった。というわけで、昨夜は能鑑賞してきました。

 今年の能は「熊野(ゆや)」という演目。あらすじは、平宗盛の愛妾の熊野(ゆや)の故郷の母が死にそうになってるからお暇をもらって故郷に帰りたいと何度も宗盛に訴えてる。でも宗盛は熊野と一緒に桜を見たいから帰さない。花でも見たらうじうじ訴えてる熊野も気が晴れるんじゃないかと考えた宗盛が強引に花見に連れ出すのだが、熊野は母のことが気になって気になってしょうがなく花見どころじゃねえよと鬱々と思いながら花を見る。そして散る花を見ながら、京で散る花も惜しいけれど、故郷の母の命ももうすぐ散るかもしれない、と歌を詠んで、ようやく鈍い宗盛も熊野にお暇を取らせて故郷に帰すのを許すのでありました。

 うん、こういう男いるよね、という話。なんかさ、今まで見たのよりも登場人物多いし、花見に連れ出すシーンではどんどん場面が移り変わっていくし(地謡が描写しているだけで舞台は変わらないけど)、動きも多いし、太鼓も笛も盛り上がりまくりだし、派手な演目でした。

 能で一番重要なのは言葉だと思う。セリフの意味が分かることが一番重要じゃないかな。舞台を睨んでいても登場人物が悲しいのか嬉しいのか分かるわけがない。静止しているのが何を表しているのか、節の抑揚が何を表しているのか、太鼓や笛がなぜ盛り上がってるのか、それは全部「言葉」に答えがある。そしてその言葉は相当な素養や修練がないと簡単には聞き取れない。独特の節回し、低い低い声、仮面の下にこもる声、誰が喋ってるのか分からない動きのなさ。この能楽鑑賞会では台本がいただけるのでわたしは台本の文字を追い、舞台と交互に見比べながら今何を表現しようとしているのかを必死で追いかける。台本放置してぽかーんと舞台睨んでも何も分からないだろうなあ。ジャパニーズエキゾチック!ビューティホー!とか思うくらいで。アータイクツー!カンニンシテー!とか思うくらいで。

 能って、受身では何ももらえない。感情は表現者が押し付けるんじゃなくて、受け手の体の中からじわじわと湧き出てくる。こんな状況だったらきっと悲しいんだろうなあと受け手が我が身のことのように感じて自分の内から自分自身の感情が湧き出てくる手伝いをする。幽体離脱するの。能見てたら。んで、ふと、能って大掛かりな朗読じゃないかと思った。何であんな節回しや間が生まれたんだろうと考えてた。悲しさ、諦め、恋心、表に出せない感情、移り変わる景色、幽玄な情景、そしてゆっくりと流れる時。それらをこれしかないというやり方まで極めた絶妙な朗読。舞台の人たちは言葉を邪魔しないように極力動かない。見る側は、舞台の人型を媒介にして想像をもっともっと膨らませる。というわけで、あれは、究極の朗読のあり方なんじゃないか!巨大な立体絵本なんじゃないか!

 いつか朗読会とかする機会があったら、能をベースに演出してみたい。

 伝統ってすごいな。人間一人が生まれてから死ぬまでの間では到底成し遂げられないことをやっちゃう。きっとあの人間国宝のおじーちゃんだって、やりはじめたときはそこまで能の良さとか何たるかとか分かってなくて、伝統や今までのやり方で修練していくうちに分かってきて、それからまた新たに何かを付け加えていったんだと思う。わたしはたった一人で小説を書いて心細い。どこまで到達できるかって、ほんのほんのちょこっとで、それも先人の大天才の足元にも及ばないだろう。わたしは先人の大天才を土台にして、そこからちょこっとだけ先にいけたらいいのに、なんて思いました。年取ったせいか、最近は、歴史の重みとか古いものに惹かれるようになったのです。