Folioのこと

 昨日のプロフェッショナル(NHKの番組)は、現代美術のキュレーターの人の特集だった。美術館の展示を企画する人。どんな展示にするか、どんなアーティストに依頼するか、どんな作品を作ってもらうかを企画し、実行し、ときにはアーティストと一緒に作るのをサポートしたり、作品の配置や見せ方を考えたり。実際の展示で、安全性や実現性の面から、アーティストのやりたいこととぶつかってしまったのを調整したり。

 あ、これだ。わたしがFolioでやってたことはキュレーターだったんだなあと思いました。(※Folio…2年前にわたしが編集と作品で参加していたWeb雑誌。ものを作る人全てにいいものを届けたいというコンセプトのもとに、小説に限らない他ジャンルの表現家を巻き込み、しかも号ごとの企画に沿った作品を作ってもらうパッケージ型webコンテンツ。現在休止中。)

 キュレーターとしての仕事も面白かったけど忙しすぎて、小説の書き手に専念したくなってやめてしまった。キュレーターという職業をそもそも知らなかった当時のわたしには思いもつかなかったけど、昨日のテレビで、キュレーターというのも一つの表現の形なんだと思った。スタッフ3人でやってたFolio だったけど、デザインや雑誌のコンセプトがいいってほめられたらそれはサイキさんの表現活動への賛辞だし、Webデザインが使いやすいってほめられたら徳保さんの表現活動の賛辞だし、内容や集まった人たちの作品が面白いって言われたら、企画して相談してスカウトしてサポートしたわたしの表現活動への賛辞なんですよなあと、思った。
ただの作業じゃない、表現の形。普段一人では発揮できないものをFolioという場でやってみた。そんなFolioでしたので、雑誌と呼ぶにはあまりに作り手に寄りすぎていて、読者がもっと読みたいと言われようがこっちに新たな表現がなくなれば打ち切ってしまうワガママっぷりであったのでした。雑誌というより企画展に近かったかもしれない。今思えば。

 これも自分の表現だとちゃんと認められてたら、こんなことしてる場合じゃないなんて焦らなかったかもしれない。小説にいい影響与えるから頑張ろうとは思ってたけど、これも表現だとまでは思ってなかった。だから大変大変と愚痴ってばかりだったし。もちろん、やっててとっても楽しかったんだけどね。Folioを面白いって言われたときの喜びは自分の小説を面白いって言われたのと同じくらい。楽しいけど楽しんじゃ駄目だと思ってた。だってわたしは小説で楽しませなきゃいけない、なんて。

 キュレーターの彼女は、もともと絵とか美術をやりたかったんだそうだ。でも現代アートの魅力にとりつかれて、それをもっと人に出会わせたいと思うようになってキュレーターになった。似たような話を同じ番組で聞いたなあと思った。古文献の修復師の人はもともと自分が絵をやってたけど、古文献の魅力にとりつかれて、それを後世に残す仕事をしたいと思って飛び込んだんだとか。

 好きなものに対してそういう関わり方があって、そういう表現者もいるんだなあと思った。

 小説の魅力をもっと伝えたい。でもあくまで自分も表現者でありたい。方法は何も小説を自分が書くことだけにこだわる必要はないのかもしれない、とまあ理性では思うが、自分が書いた小説で小説の魅力を伝えたいという思いは捨てられない。でも、案外、そんな目標は、少し突き放して見えないくらい向こうへ追いやるほうが近道かもしれない。
 
 何かやりたいなあ、来年は。人脈も増えたことだしね。