「文学が世界をつなぐ」

 こんなタイトルの文学部主宰のシンポジウムに行ってきました。講師は池澤夏樹谷崎由依さんで司会が文学部の教授の若島先生。谷崎さんは、文学界新人賞でデビューしたばかりのピッカピカの新人作家で京大文学部出身。わたしと同じ年くらいでしょうか。時計台ホールのあのでっかい舞台に座って作家と教授とのセッションをやり遂げた堂々としたお姿は素晴らしかったです。すげー、かっこええーとか思ってみてました。

 ところで、なぜこの講演のテーマに池澤さんが呼ばれたのかと思ったら、彼は最近、個人責任編集で世界文学全集を作ったということでした。1960年代、文学全集ブームがあって、家には文学全集があってそれを見て育ったという若島先生や池澤さんの世代。だけど、1978年ごろには世界文学全集のブームが去ってそれ以来、新たに刊行されてないのだそうだ。確かに我が家には全集なんてない。じーちゃんちに合った気がする。あれもらってきたい。
 そんなブームのさなかに育った池澤さんは、自分の人生を世界文学全集が作ったと語る。思い入れの強い彼が、今度は選ぶ側として若い人に推薦して呼んでもらいたいものを集めた全集。しかも、20世紀後半の作品から彼の独特の基準で選んだ、かなり「攻め」な全集のようです。クンデラしかり、G・マルケスしかり、クッツェーしかり。他は知らんが、読まねばと思った。でも全集はまだ読む気がしない。出会いを大切にしたいの。お見合いじゃなくて。自分で出会いたいの。恋愛したいのー。

 わたしは、世界中で読まれる文学を書きたいと思ってるのでとても面白いシンポジウムだった。現在の文学のトレンドは、ポストコロニアニズムとフェミニズムであって登場人物が移動する話ではないかという話が面白かった。わたしが思い当たるのは、植民地出身で先進国に移住した作家としてクッツェーとかG・マルケス、祖国を追われて移動せざるをえなかったクンデラ。女性作家はちょっと思いつかないんだけど。これらの作家の作品が、彼編集の全集には入ってる。困難さ、苦しみや葛藤に文学の面白さがあるとしたら、これが現在のトレンドだというのはなるほどと思った。貧困や奴隷や国による抑圧や信仰の苦しみが19世紀の苦しみの主なテーマだったとしたら、今の苦しみは異文化での自分のアイデンティティの落とし前のつけ方、それが20世紀なんじゃないかと。池澤さんは世界文学全集の編集を通して、そんな課題を提示する。そして、これからの文学を担うわたしたちに次は何か考えろと言ってるんじゃないか、と思った。

 この話とつながるのだけど、最後に一般の聴衆からの質問コーナーで、マイクを握って演説しまくったおじさんがいた。昔は苦労して悩みがあっていい文学が出来たけど、今の若い子は軽い生き方しかしてないから文学なんて出来てない、なんて怒ってた。池澤さんは、確かにそのとおりだけど今は今の文学があるというようなことをおっしゃってた、と思う。わたしもそう思う。昔の真似をして貧困ものを書いても昔ほどの切実さは出ない。かといって今のわたしたちが何の悩みも持っていないかといえばそうではない。質と種類の違う切実な悩みを持っているし、それを書かなきゃいけない。昔の文学を有難がるのもいいけど、文学は骨董品じゃない。生き物だ、と思う。貧乏の苦労さを有難がるのではなくて、苦労して切実に生きていたその葛藤部分をちゃんと感じれば、たとえ小道具が手紙からメールになったとしても、お芝居からテレビになったとしても、文学は死んだりしない、と思うんだ。もちろん、文学性のない小説だっていっぱいある。でも憂う必要はない。上っ面の風俗だけを書いたものは時に淘汰され消えていくんだから。

 壇上には大作家と新人作家がいて、作家の志望のわたしは聴衆席にいる。作家になったら特別偉い人になるような錯覚を抱いてたときは、受賞者に嫉妬したり羨んだりしたり、自分が卑屈になったりしてたけど、今は全然違っていて、受賞してもプロ作家でも最終候補でも予選通過しなくても、身を削って本気で小説を書いている人は皆、同志だなという感じがする。ずうずうしいかもしれないけれどね。受賞したあとも厳しい道が続いている。そこがゴールじゃないし、ゴールなんて一生ない。死ぬまで書いたってたどり着けないところを文学は目指さないと。書いた作品が誰かに影響を与えることができて何かを伝えていってつなげていって、延々と自分の知らない未来へレースはつながっていく。

 視野が広くなるような素敵なシンポジウムだった。世界文学を読む意義として、なるべく遠方に自分の分身を置くのがいいんだ、と言ってるのが印象的だった。なるべく遠いところで詳しいものを読むのがいいんだと。