100年どころじゃない

 なんかさ、日記書いてないのは執筆頑張ってる証拠だからと言った手前、日記書いてると執筆頑張ってないようで後ろめたいです。いいえ、そんなことはありませんから…!

 ところで、昨日の日記とその前の日記。100年残る小説が書きたいって言ってたけど、川端康成の雪国が刊行されたのが1937年。あと30年経てば100年になるわけですね。30年後、雪国は残ってるだろうな。

 その川端康成が愛でていた美術品は、100年どころじゃない歴史があるものが多い。たとえば、彼のコレクションには縄文時代の女子土偶なんてものがあるそうだ。4000年前の作品だという。

「古美術を見てをりますと、これをみてゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします」

 特集の冒頭に書かれた彼自身の言葉。最初は、へえーっと思っただけだったけれど、美術品の数々を眺め、それに対する川端の並々ならぬ情熱を見ているうちに、自分が書いた日記を思い出した。4000年前の美術品と対峙して言葉にはならない何かを交し合うのは、一体どういう気分なんだろう。美術品といえば、美術館や博物館で眺めるものだと思ってた。それを自分の書斎に置いて、ときには文鎮にしたり、ときには眺めたり、撫でさすったりしながら、遠い遠い昔の芸術家のことを思うのは、一体どういう気分なんだろう。遠い遠い芸術家の作品が、今自分のところにあって、時を超越して語りかけてくる。その言葉に耳を傾けながら、自分もまた作品を作っていく。ものすごいことだなと思う。脈々とつながった生の一部に自分が属しているという実感は、安堵と感動を与えてくれるような気がする。

 そもそもこの雑誌を手に取ったのは、次の小説に陶芸の話を書こうとしているからなのでした。陶器や美術のことを知らないといけない。そんな動機で手に取ったから出会いがあった。小説家になりたいし、なれなくていいなんて言うつもりはないけれど、小説を書くことがわたしの出会いを増やし、解像度を高め、わたしの人生を深めてくれる。わたしは小説というものに惚れこんでいるのです。早く振り向かせて結婚したい。