ガルシア・マルケスに会いたい

 2,835円でノーベル文学賞受賞作家ガルシア・マルケスのワークショップが受講できるとしたら、受けたい? 当然じゃないか、何それ、どこでやってんの? と鼻息荒くした人のためだけの日記。
物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室
 これの話。あ、これがね、2,835円なの。なーんだっ…って。ああ、待って!帰らないで…!いやあこれさ、ほんと面白いよ。物語とはうんぬんとガルシア=マルケスが延々語るんじゃなくて、みんなでわいわいワークショップをやってる臨場感溢れる様子が文字収録されているわけで、その中で若い脚本家たちに向かってぽろりと漏らすガルシア=マルケスの一言一言の示唆に溢れること!宝の山!宝の山!ノートに感動した言葉を書き写しながら読んでしまった。なんか恥ずかしいなあと思いながら。でもこれが講義受けてると思ったら、ノート取っても悪くないよな。本買ってマーカーで線とか引いたらいいんだろうけど、わたしは本には書き込み出来ない派。だって、また別の時期に読んだら違うところで感銘を受けるかもしれないのに、以前の落書きが残ってたらいちいち意識が飛ばされるじゃないですか。ね。で、これ自分の手でせっせと書き写すのがいいんだよな。何だか久しぶりに大量に文字を書いた気がする…。
 
 たとえば、ノートの一部はこんな感じ。■はわたしが勝手につけた小見出し。紺テキストはガルシア・マルケスの言葉。()の中はわたしの感想。

■小説家が小説を読むのは

小説家が人の小説を読むのは、どんな風に書かれているかを知りたいからなんだ。人の書いた小説を裏返して、ねじをとりはずし、バラバラになった部分をきちんと並べ直してみる。あるパラグラフを切り取り、検討を加えていくうちに、ふと、ああ、そういうことかと気がつく瞬間が訪れるんだ。「こういう書き方をしたのは、人物をここに配置し、あの状況を向こうへ持っていくためだったんだ。というのも、向こうで必要になるから…」。言い換えると、目をしっかり開けて、催眠術にかからないよう用心し、奇術師のトリックを見破るように努めなければならない。技巧、仕事、トリック、こういったものは教えられるし、学ぼうとする人は、そこから役に立つものを引き出せばいい。


(こんなふうに読んだことはないなあ。読者として読む、さらに小説家として2回目を読み直す、という作業をちゃんとしてみたい)


■小説家の最初の読者

小説を書いている時のわたしは、自分の世界に閉じこもっていて、人と何かを共有するということはない。人の意見に一切耳を貸さず傲岸不遜に構え、絶対権を握り、虚栄心の権化と化している。なぜなら、自分の胎児、つまり心の中に懐胎したものを成長発展させていくにはそうするしかないと考えているからなんだ。で、最初のヴァージョンができあがるか、もしくはできあがったと判断したら、人の意見を聞く必要に迫られて、何人かの友人にオリジナルの原稿を渡す。古くからの友達で、彼らの言う意見には信頼を置いている。だから、わたしの作品の最初の読者になってもらいたいと頼むわけだよ。彼らを信用しているのは、いい出来だとか、すばらしい作品だといって喜ばせようとするのではなく、何が悪いのか、どういうところに欠点があるのか、といったことを忌憚なく言ってくれるからだ。そういうことが大いに役立つんだ。わたしの書いたものを読んで、長所しか見ない友人は、本になった時点でゆっくり読んでくれればいい。欠点を見つけて、こういうところがよくないと言えるような友人こそ、本になる「前」に読んでもらいたい読者なんだ。むろん、そうした批判を受け入れるかどうかはこちらが決めることなんだが、たいていの場合、そういった批判は無視できない。

(ああそう。ずばりそう。本当にそうなんだけど、でも意志が弱いわたしは褒めてももらいたくて、長所ばかり言ってくれる友人にも、初稿を見せたりしちゃうな。こんなふうにきっぱりしたい)



■誰もがいいと思っているものを疑ってかかる

とにかく理想を高く掲げて、一歩でもそれに近づこうとすることだ。それに、しっかりした考えを持つこと。削除すべきものを削除し、他人の意見に耳を傾けて、それについて真剣に考えるだけの勇気を持たなくてはいけない。そこから一歩踏み出せば、自分たちがいいと思っているものをいったん疑ってかかったり、それが本当にいいものかどうか確かめられるようになる。さらに言えば、誰もがいいと思っているものを疑ってかかれるようになる。これはたやすいことじゃない。何かを破棄しなければならないと考えはじめると、とたんに「自分がいちばん気に入っているものをどうして捨てなければならないんだ?」と考えて守りに入ってしまう。

(守りに入るなあ。どうにかして捨てないでいい方向に自分で自分に言い訳をするな。でも、捨てたとき、鮮やかな新たな世界が広がっていくのは経験済み)



■捨てるかわりにしまっておいたもの

捨てるかわりに大切にしまっておいた場合は用心したほうがいい。というのも、題材が手もとにあると、別なところで生かせないかと考えて、何かあるとまた引っぱり出してしまう危険があるんだ。

(よくやるかも。これ。よくない。)



■自分の生活体験をすべて書き尽くしたのなら

エリッド、自分の生活の中にもっと素直に語れるような出来事があるはずだから、それを掘り起こすことからはじめたらどうだい。そこからはじめるべきだよ。実体験に基づいた物語をたくさん書いたうえで、この手のストーリーを書くのはかまわない。つまり、創作の源泉とも言える自分の生活体験をすべて書き尽くしたと感じたのなら、別の方向を模索するのもいいだろう。だけど、最初からこういう方向に向かうというのは、順序が逆なような気がするんだ。


(創作の源泉って言葉に打たれた。泉を枯らさないように、濁らさないようにしなきゃ。)


 示唆に満ちた言葉がいっぱいなんだけど、それだけじゃなくて、誰かが持ってきた一つのストーリーをみんなで練り上げていく過程が本当に面白い。各自が自分の好きなものを付け加えるんじゃなくて、そこにあるストーリーは本当はどうしたいんだろうと考えながら、右へ振ったり左へ振ったりして、あるべき場所を探していく感じ。シリアスな話の展開に煮詰まったときに誰かがぽんと冗談を言って、それじゃあコメディじゃないかと誰かが言ったら、当の話を持ってきた本人が「できればコメディーにしたいんですけど」と言いだし、ガルシア・マルケスが「なんだって!どうしてもっと早く言わないんだ」と言う。掛け合い漫才みたい。コメディと決まった途端、この話は途端に色鮮やかに変化してアイデアが回転し始める。また、ガルシア=マルケスは、全員が海辺で出会う女が魚の頭を切り落としているシーンについて真剣に論じてるときに、切り落としているのは子供の頭でもいいんじゃないか、と突然言い出してみんなを驚かせる。えっ、なんですって?と驚く彼らと一緒に、わたしも、えっ!!と驚く。ガルシア・マルケスいわく「このストーリーにはきちがいじみたところがない、そう言いたいんだ。君たちはまじめすぎるんだよ。」だって。ただまぜっかえすわけじゃない。彼が口を開いた途端、全く違う世界が一瞬で広がる。それは一つの可能性なんだけど、たった一本道しか見えてないときに、突然別の可能性を示されただけで、世界が豊かになっていく。小説を書くという作業は孤独で、これがいいって思ったらそれにしがみついて他を見なくなっちゃうよね。本当にそれがいいのか、もっと面白くならないのか、貪欲に物語の可能性を追求しなきゃいけない。まあこれって、小説だけじゃないかもね。

 で、冒頭ですが。この臨場感溢れる本は、まるでガルシア・マルケスのワークショップに参加して一緒に論議してるような気持ちになれる。2,835円なんて高いぜと思ってたけど、講義を受けるとしたら安いもんだなあと思うのでした。別に回しもんじゃないですが。リンクから買っても、はてなが儲けるだけですが。
 ガルシア=マルケス。まだご存命ですよね、彼は。ああ、会いたいなあ。会ってオーラを感じたいなあ。