自分のいい加減なところが嫌で直そうと思っても、いい加減なもんだからすぐその決意を忘れてしまう。いい加減な性格だから、まあいいじゃんいい加減でもと思ってしまう。どうしたものか。このループ。もう直す気ないみたいじゃんね。さすが、いい加減。うはーん。だめぽ!…どこから手をつけよう。 まずは自分の名前をぱそ子なんて適当な名前じゃなく、律子とかにしたらどうだ。名は体を表し過ぎてるよ!ぱそ子!
 嘘。まずは遅刻をしないことから始めるのだ。

 茫漠とした無駄遣いできるほどの自由の中で、魂の解放は起こらない、と最近思う。だって必要に迫られないもん。のうのうと暮らしていけるもん。もっと律したい。ぎりぎりまで。自由に動き回る手足を縛って、おしゃべりをやめない口を塞いで。

 表現とは自分という枠から自分をぽーんと外へ放り出していい形にして相手に届けることなんだと最近思う。この「ぽーんと放り出す」というのは子供なら誰でも出来るんだろうけど、社会生活を営む一般人には難しいことで、体から声を出すような力を入れず余計なものを捨てて前に出すコツがある。「いい形にして」というのは、訓練や技術や工夫や試行錯誤の連続でその分野特有のものなんだと思う。単に自分を放り投げても伝わるいい形になってなければ子供の奇声と同じだから。
「ぽーんと放り出す」ということを既に自分の分野で成し遂げている人は他の分野を手がけてもいいものを出すのは当然だと思う。ロック歌手に小説書かせてみたらすごくよかったりとかね。
 画家の横尾忠則対談集の中で、元マラソン選手の増田明美さんとの対談の中で、マラソンも自己表現であるという話が出てきて、びっくりした。ものすごいびっくりした。しかもそれを横尾さんが言ってるのではなく、増田さんが言ってるのでびっくりした。ああ、本当だ、と素直に思える対談内容で、それを読まなきゃ伝わらないかもしれないけれど。自分の体と心を使ってぎりぎりまで高めてそれを表出する。一回のレースに出るために最低4か月の調整が必要だという。スタートラインに立てたということ自体がすごく嬉しい達成感のあることだという。まるで執筆みたいだと思った。もがいて試行錯誤をくり返し続けた結果、物語が確かにそこにあることが分かって、後は書くだけという嬉しくて緊張した興奮。あとは走りきるだけという状態。

 自分を出すだけなら自己満足。出して相手に伝えるだけなら表現。さらにそれが感動を与えたら芸術なんじゃないかな。そのために訓練をする。自分をぎりぎりまで律していく。律した中に芯の通った解放の叫びがある。そして熟練すれば、茫漠とした自由の中でもっともっと大きな広がりのある魂の叫びをぴーんと出すことができるようになるんだろう。今はまだそんな何もないところでは拡散して届かないものしか出せないから律したいんだ。実生活で忙しく働くとかそういう話ではなく、表現という分野で律する方法を模索していて、たぶんそれは自分にだけ分かることで、もうすぐ分かると思う。