未完の小説

 夏目漱石の「明暗」を読み終わった。読んでいる途中に、それは未完の作品だよと教えてもらっていたのに、読み終わって本当に未完だったよ…と愕然とした。しかも何だかとってもいいところで終わっていた。解説によると、漱石は次の原稿を明日書くつもりで原稿用紙に小さく189と書いて(次回は連載189回だったから)、弟子の妹の結婚式に参列した。そして、翌日、机に積み重ねた原稿用紙の上に突っ伏したまま、第189回分を一行一字も書くことができず、床につくことになり、それから次第に病状が悪化して亡くなってしまったそうだ。49才10ヶ月。

 「明暗」は未完だということを教えてくれた人は、未完のものはがっかりするから読まないようにしていると言ってた。でもわたしは未完でも読みたいと思って読んで、そして読み終わった。漱石の小説は、最終的にどんな結末へ落ち着くかというよりは、毎回毎回のシーンの書き方に興味があってそこを楽しむから、未完でも構わないと思っていた。「明暗」は、夫婦の話。夫婦や親戚や友人たちのそれぞれが腹に一物抱えていて、それを相手に気取られないように、もしくは相手を威嚇しながら、真剣で切りあうような緊迫した会話シーンが多く出てきて、それが見所。人と人が対峙したときに生まれる緊張や葛藤の微妙で絶妙な空気が、細かく描かれてる。そこがとても面白かった。だからまだまだ続くつもりだった(と、漱石が言ってたそうだ)このストーリーが断絶されてしまったことへの不満はあまりない。

 ただ、未完の作品を読み終わったあとはいつも、荒涼とした果てのないような無常な気分が沸き起こる。ずっと無邪気に辿ってきた文章が突然途絶えたとき、わたしは初めてこの文章が生身の人間によって生み出されていたことに思いをはせるからだ。ああ、ここで絶命したんだ、と思う。金色夜叉も未完だった。太宰のグッドバイも未完だった。わたしはいつも未完だと知らず読んでしまうから、びっくりしてそれから感情の嵐が吹き荒れる。

 小説という世界の中で、無限の時を操れようとも自在に人生を設計できる存在であっても、その魂を納めている肉体の使用期限は、とても短い。未完なのは小説だけじゃない。人生はいつだって未完なまま打ち切られる。数十年後まで設計図を思い浮かべていても、明日終わるかもしれない。わたしの人生を描く作者だって、いつ絶命するとも限らない。

 だからだろうか。未完の小説にはなぜかとても惹かれる。そこには、フィクションと現実をつなぐ生々しい何かが存在しているからなんだろう。