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 ツイッターで紹介されていた、寺田寅彦の「津浪と人間」という文章を読んで呆然とした。昭和8年、今から数えて88年前に書かれた文章なのに、まるで今書かれたような内容で読んでいてつらかった。こんなこと考えたこともなかったし、この出来事が起こるまでは、起こるか起こらないか分からない何十年に一度の災害に備えるなんて…と思っていた。そういう自分を思い出して、悔しい。覚えていたからと言って、何ができたというわけでもないかもしれないけれど、ただ、もう忘れたくないと思った。

 昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙なぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。

 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力ではまげられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄て鉢の哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。

(「津浪と人間」寺田寅彦より)

 引用部分だけだと厳しいようだけど、全体を読むと、寺田寅彦の視線は人間の性質に寄り添っていて優しい。忘れてしまうことも「人間界の人間的自然現象」である。数十年に一度の非常時に備えて「無事な一万何千日間の生活に甚だ不便」に過ごすことは難しいとも言っている。じゃあどうすればいいか。自然現象は変えられない。「残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。」
全文は青空文庫で読めます。→「津浪と人間」寺田寅彦

 今、いろいろな言葉が今までとは違う意味を持って、自分のこととして聞こえてくる。思考停止のまま見てみぬふりをしてきたいろいろが、自分の問題として考えられるようになった。少しずつ、消化中。