その傷は行動することで癒される

 昨日の自分の日記の文章を読んで、何を書いているんだろうなと思った。全部、消してしまいたかったけれど、それはあまりにも無責任なので最後だけ書き換えた。つぎはぎみたいで気持悪いけれどね。
 わたし、かなり落ちこんでいたんだなあと思った。本当に大変なのは自分じゃないのに、傷ついて落ちこんで閉じこもっていた。
 初めて身近な友人を亡くす経験をしたときも同じように、知らせを聞いた直後はきれいな言葉にくるまってひとり自己完結して閉じこもっていた。でも仲間に引っ張り出されるように、新幹線に飛び乗ってお葬式に駆けつけて、みんなの顔を見て、ご両親にあいさつして、一緒に泣いたり思い出話をしたりしているうちに、自分も落ち着いた。今は、そういう悲しい知らせを聞いたらすぐに、今誰のために何ができるのかを考えるようになった。
 昨日の日記を見ながら、そんなことを思い出していた。自分には何もできなかったという無力感に打ちのめされたとき、人は深く傷を負うのだと思う。でもその傷は行動して、小さくて弱い自分でも、何かができることを確かめられたら、少しだけ癒される。だから、みんな行動したがっている。
 テレビはとめどなく情報を流し続ける。ツイッターのタイムラインでは、いろいろな人が口々に情報を叫んでいて目が離せなくなる。魂が吸い取られていく。飲みこまれて抜け殻になった無防備な体に、ショッキングな映像が次々と焼き付けられる。
 自分には関係ないと思うことは、人間の防御反応なのかもしれない。日々、ショッキングなニュースにさらされながら、自分には関係ないと思うことで、わたしたちは生きていける。全部自分に関係あると思ったら、きっと怖くて生きていけない。
 今回の地震は、あまりにも圧倒的であまりにも身近すぎて、きっと、日本に住む誰もが自分には関係ないとは思えない。防御装置が働かない。映像と情報が次々と届けられる。関係あるから目が離せない。でも、関係あるから怖い。じわじわと重圧がかかっていく。
 でも、これからは被害がこんなにひどいんですという話ばかりじゃなくて、どう行動するかという話が伝えられるようになるのだろう。なってほしい。ネット上では、ずっと早い段階から、そんな動きになっている。
 ご冥福を祈るという言葉は何だかうまく扱えないけれど、被害にあった人たちの悔しさも悲しさも一生忘れません。行動します。
 本当はこんなときに、言葉を発するのはしんどいな。いろいろな状況の人がいて、誰かが不快な思いをするかもしれない。感情が波立っていてきっと失言もしてしまう。でも、何だか今、わたしは誰かの生の声が聞きたい。立派じゃない言葉が聞きたい。みんな口をつぐんでしまったからわたしくらい、なんてことを思いながら日記を更新しましたけれど。きっとまた、明日読んだら、こいつ駄目だなーって思うんだろうなあ。失敗しながら、少しずつ強くなります。