大義名分はなんだろう

 子供のとき、母が購読していた「暮らしの手帖」という雑誌をぱらぱらと読むのが好きだった。家電の比較や料理のレシピなど、子供には関係ない話ばかりなのだけど、何だかこの雑誌のトーンが好きだった。声質というか。
 他の雑誌の文章が、ただいまセールやっています!と声をはりあげて道行く人を呼び止めるお店だとしたら、この雑誌の文章は、気になる店構えでひっそり存在していて、思わずこちらから扉を開けて入ってしまうようなお店、なんてたとえたら分かりやすいかな。雑誌なのに小説のような感じがした。
 その「暮らしの手帖」の編集長が書いた、毎日をきちんと生活するコツのようなものがつまったエッセイ集がこれ。

あたらしいあたりまえ。

あたらしいあたりまえ。

 基本的にわたしは自堕落な生活をしているので、元気なときは、こういうものは説教臭く感じられてしまって見向きもしない(人の忠告も聞かない)。でも、ちょっと弱ってるときに読むと染みこんでくる。
 この本の中に「大義名分はなんだろう」という話があった。

大義名分はなんだろう?」
 誰かにこう尋ねると、たいていはびっくりした顔をされます。いささか古めかしくて、大げさな言葉だからでしょうか。
 それでも大義名分は、自分とみんなを支えていくために、とても大切なことです。仕事においてはとくに、大義名分が必要です。

 松浦さんの大義名分は「人を幸せにすること」だと書いてあった。暮らしの手帖も、その大義名分に基づいて作られているのだそうだ。
 大義名分って言われたらびびるけど、松浦さんの答えはシンプルで、すっと染みこんできた。これを読んだときから常にわたしの中に、大義名分はなんだろうという問いが居座るようになった。小説家になりたい、芥川賞を取りたい、印税生活をしたい、有名になりたい、そんなものの中には「大義名分」は含まれていない。小説家として有名になって本が売れてお金持ちになって満足かと言われれば、そうじゃないから、やっぱりわたしも大義名分のようなものを持っているのだとは思う。それを言葉にしたことがないだけで。
 最近、ぽつぽつ仕事を依頼されたり、仕事じゃなくてもたとえば展示やリトルプレスの執筆を依頼されたり、誰かとコラボを持ちかけられたりするようになった。時間は限られているわけだから、その時々に、それをやるかやらないかを判断しなきゃいけないようになった。自分が何を基準に判断しているのか、何を大事にしているのか、判断するたびに見えてくるようになった。
 今、ぼんやりと考えているわたしの大義名分は、「小説によって人の幸せの定義を広げること」かなと思う。まあ結果的には人を幸せにすること、になるんだけども。
 幸せというものは、気分や状態よりも価値観に依存するものかもしれない、と思う。極端な話をすると、大企業につとめて、安定した収入で、テレビドラマに出てくるようなおしゃれな生活をして、老後の年金も安心で、家を持って、子を育てることが幸せ、という価値観に縛られていたら、わたしが今感じている「幸せ」は、全然幸せではないかもしれない。
 世の中ほんとう、広告だらけで嫌になっちゃうよね。広告の中では、たくさんの人がそれぞれの思惑を持って、幸せの定義を声高に提案している。お金がいっぱいあるのが幸せ。高級車に乗るのが幸せ。マンション買えるのが幸せ。予約でいっぱいのレストランで食事するのが幸せ。恋人がいるのが幸せ。容姿がいいのが幸せ。海外旅行できるのが幸せ。
 そんな世の中で、わたしはひっそりと店を構えて、店構えが気になって入ってくるお客さんを待ちながら、小さくて深くて個人的な、誰かに儲けさせるためではない幸せを売っていきたい。あ、この幸せならこんなとこにあった、自分にもできるじゃん、と誰かが気づいて、少し前より幸せになってくれたら、嬉しい。少なくとも小説には、それができると思う。
 大義名分が見えると、逆算して何をすればいいのか分かってくる。何をしなくていいのかも分かってくる。
 その場で楽しんで終わりだけじゃない、ちょっとだけ読んだ人の心に深く食いこむ良い小説を書くこと。そして、大勢の人に(できれば小説と縁がなかった人にも)それを読んでもらうこと。
 まあ、まずは目の前の締め切りに間に合うよう、良い物語を書くことですけどな…!そのあとのことは、のちのち。ぼちぼち。