北田先生

 中学生から高校生まで6年間、わたしは小さな塾に通っていた。大きな予備校とも学校とも違う、わたしにとって、もう一つの家のようなそんな場所だった。そして、その家の“お父さん”が北田先生だった。
 小柄で、いつもタバコをくわえて、気が向けばひょいっとジュースをおごってくれたりして、あまり先生らしくない先生だった。にこにこしながら軽口をぽんぽん飛ばして、励ましてくれた。ここで過ごした時間と、ここでの出会いは、今のわたしを確実に形作っている。
 今年になって久しぶりに広島に帰った。高校を卒業して広島を出てから、12年が経っていた。高校生だったわたしは30歳になったし、先生も生徒からおじいちゃんと呼ばれる年になっていた。
 受験が終わったあとの教室は、がらんとしていて自習する生徒がまばらにいるだけだった。先生はいつになく饒舌だった。普段はにこにこして話を聞く側に回るのに、その日は、いろいろなことを話してくれた。塾のこと、経営のこと、時代の移り変わりのこと、他の先生の近況のこと。
 話してくれたというよりは、何だか一方的な感じがした。この違和感は何だろう、と思った。わたしが大人になったから、対等に話ができるようになって、前と違う感じがするのだろうか。でも何だかそれだけじゃない。白紙のノートに埋められていく文字のように、先生の物語がわたしの中に放りこまれていった。わたしは自分じゃ役不足じゃないかと思いながらも、懸命に聞き役に徹した。受け取りたい、と思った。
 あと一年したら塾を閉めて、自分の人生を歩もうと思う、と先生は言った。その言葉は温度を持って、わたしに届けられた。しばらくは、おふくろの介護で手一杯だけどね、と。
 それが一月の話。
 昨日、突然の訃報があった。家が火事になったということだった。ネットでニュースを検索したら赤い炎をあげている写真を見つけた。
 先生の人生は唐突に終わってしまったんだな、と思った。葬儀は行わないということだった。今、全国に散らばったたくさんの卒業生たちが、それぞれのやり方で、先生を悼んでいるんだろうと思う。わたしは文章を書く。
 長く生きるということは、いくつもの死を知っていくことなのだと思う。死を刻み付けて生きていくということなのだと思う。不運な死者に対して、生きてるわたしの取れる唯一の公平な態度は、そのたびに自分にも同じことが起きるかもしれないと覚悟を決めて今の生を一生懸命生きることだけじゃないかなと、思う。