人生の試練かもしれない

 昨日は雨に降り込められ、せっせと物を片付けていた。とはいえ、本当に片づけが苦手なので前よりも散らかった部屋になり途方に暮れる。片付けるコツは捨てることだとどこかに書いてあったので、捨てようとは思うのだけど、これはもしかしたら将来いるかもしれない、いやそんな考えが片付けられない素だ、でも何でもかんでも捨ててすっきりすればいいってもんじゃない、などと葛藤し体力を消耗する。大体、なにかを要るものと要らないものに分ける作業は、大げさに言えば自分の人生観を問い直す作業であって、消耗して当然なのだ。捨てられないわたしは、この人生観がはっきりしていないからであって、ここで頑張って自分を見つめなおしたら、今後はきっぱりさっぱりと要らないものと要るものが見分けられ、てきぱきと片付けられるようになるんじゃないか。そうだ、これは人生の試練だ。
…などと延々うだうだやっていたら、もう見かねたらしく、夫が開かずの扉を開けては、続々と取り出して「じゃあ、これ捨てるね」「これは要らないだろう」「こっちはどうするの」と矢継ぎ早に聞かれて、あああ、それはこっち、これはえっと、あああ待って…!と、容量いっぱいになり、明日自分でやるから!と約束して許してもらい自己嫌悪とともに就寝しました。人には向き不向きがあるの。
 ところで昔のネタ帳やら書きかけのノートが出てきたりした。今度発売される小説は、書き上げたのは二週間だけどもその前に何度も何度も書いて、一回は200枚まで書ききったのに、全部やめて最初から書きなおしたわけなのですが、その元のスケッチが出てきて、同じ登場人物なのに、今とはちょっと毛色が違うセリフや行動や設定になっていて、しかし今の方がいいなあと思ったりして、流れた年月に思いを馳せたりしたのでした。昔から行き詰ると登場人物を増やしてしまう癖があって、そうなると小説自体が茫々としてしまい、会話でその場その場の面白さはつなげても、読み終わって一体これは何だったんだという物足りなさが残るわけで、この頃から、書き散らしたあとに、登場人物を一旦整理し、役割を考え、統合するという作業をして、もう一度書きなおすということをするようになったのでした。そういう期間も含めたら、2年間はかかっているなあとか思いつつ。
 手厳しい友人の感想をメモったものも出てきた。もう何年も前のものだ。あなたみたいに健全な人は小説家になんかなれないわよ、十年は無理、書くならもっと健康な人について書いたら?と彼女は言っていて。彼女のその言葉をすっかり忘れていたのに、彼女の予言どおり、わたしは、健康な人を書いてデビューしたのだよ、と苦笑いしつつ、ふんって鼻で笑って、再びそのメモ帳は大切にしまった。今ならいろいろ分かることが書いてあった。