何度も何度も何度も何度も直す

 受賞作の推敲をしている日々。新人賞応募のときは誰かに読んでもらえるか分からない状態で推敲していくわけだけど、今度は本になって多くの人に読まれるための推敲で、やりがいがある。緊張もする。
 昨年の11月に作家の角田光代さんのワークショップに出席した。タダじゃないよ、5000円払ってだよ。ずいぶん前のワークショップなのに、原稿に向かっていると急に角田さんの言葉を思い出した。

(推敲について、角田さんが語ったこと。※引用禁止)
 パソコンの画面ではなく、紙にプリントアウトしたもので、何度も何度も何度も何度も直した方がいい。一発完成というのは、ありえない。読むときは、他人として読み返す。それは、自分の小説に批評眼を持つということ。いい気になってる、陶酔しきってる、言葉が走ってる…etc..
 推敲し終わって、始めの文を見直す。本当にこれでいいのか、もっといい言葉はないのか吟味する。始めの文を直したとする。そうしたら、後の文章全部直したくなるかもしれない。そのときは、紙も労力もケチらず、直して下さい。何度もやってると、ここで終わりということが分かるようになる。
 小説が上達するには、たくさん書くしかない。考えていても、体で分からない。一つの小説と一年も二年も向き合うか、たくさん書くか、それは向き不向きや、時期によって違う。
 わたしはデビューしたあと、最初に書いた小説を編集者さんに出して没をくらった。直して出して、また直されて、と、1年近く直され続けた。せっかくデビューできたのに、本が出ない。このまま一生直し続けて終わるのでは、などと焦った。
 でも、今思えば、この時間は重要だった。そんな状態を7、8年続けた。
 小説において天才はない。それは、恋愛においてありのままのわたしを好きって言ってくれる人はいない、のと同じ。いないんです。酔っ払って帰ってきてそのまま寝てしまって、髪はぼさぼさ、メイクはぼろぼろ、服はしわしわ、目やにはいっぱいついてて、口はくさいし、鼻毛は出てる。そんなありのままの状態で町を歩いて、誰かがわたしに恋をしてくれるかといえば、しません。わーって才気走って書きなぐっただけの小説は、目やにだらけの原稿なのです。

 こんなにたくさん覚えているのは、いつも作家の講演に行くとメモを取って備忘録を作っているから。もちろん、わたしの解釈が入ってるから語ったそのままではないと思うんだけど。
 でも、「何度も何度も何度も何度も直した方がいい」は、角田さんが語ったそのままだ。何度も何度も何度も何度も。えー、そんなにー!と当時は思った。でも今は、少し分かる。物語はもうそこにある。登場人物たちも生きている。あとは作者のわたしがそれをどう見せて伝えるかというだけだ。語る順番を変えてみる。描写を増やしてみる。減らしてみる。エピソードを増やしてみる。作者のナルシシズムが混じったところを感知して書き換える。言葉を選ぶ。漢字で書くか開くか取捨選択する。何かを増やせば、全体のバランスを見てまた直さなくちゃいけない。結果として、何度も何度も何度も何度も、になる。
 こんなふうに読者の視点(どうやったら伝わるか)から直せるようになったのは、ここ1年のいろいろな経験のおかげだと思う。毎月応募し続けたきらら掌編小説賞では、1000文字という限られた字数の中で、何を削って何を残せば伝わるかという訓練をした気がする。写真に文章を添える写真物語では、シンプルで効果的に伝わる言葉を吟味することを覚えて、京の発言では、昔と今、文学と現実という違うものを文章でつなげて一つのものにする練習をした。ただ小説を書き続けていただけでは分からなかったことが、分かってきた気がする。なんつって。結果論ですけどね。真面目に長編小説描き続けていれば、また違う芽が出てたかもね。楽しんでやっていれば、万事オッケー。