ノーベル文学賞

 ル・クレジオが獲りましたね。好きな作家なので嬉しいです。以前ノーベル文学賞獲ったJ・M・クッツェーも獲る前から発掘して気に入ってた作家なので、わたし見る目あるじゃん、とか思ったりします。でも見る目があるのは、図書館の司書さんですけどね。わたしが行ったことある図書館はみな、日本の本に比べて、翻訳本のスペースはかなり限られていた。その中に厳選されて置いてある本って外れが少ない。
 で、ル・クレジオに関してですが、「春 その他の季節」という本をたまたま何気なく読んで、うわー!誰だこれ!めっちゃ面白い!とはまりました。全作網羅なんてしてないけど、いくつかは読みました。
 ル・クレジオの魅力って何だろうな。清浄な無味無臭のオイルをするすると浴びるような、くせがあるようでないような、小さな話をしているようで気がつけばスケールが大きくて、かといって何でもないことのように思えてしまうような、話の中に「旅」が潜んでいて、心が広く開いていくような。…全く意味分からないよな!ひとことで説明できたら小説など書かなくてよいのだ。

 ところで、ル・クレジオが日本に来てシンポジウムに参加したことがあるのです。2006年1月29日、東京外語大での催し。そりゃあもう、京都からはるばるこのためだけに出かけていきましたよ!往復夜行バスで!(金ないから!)
 過去ログ漁ってたら、そのときの日記を見つけました。ちょっとしかないけど。よかったらどうぞ。
■小さな片隅で世界の平和を祈るということ
 ラテンアメリカのある地域で文明の波がまだあまり押し寄せていない暮らしをしているある部族がいる。彼らは毎日真剣に、あることのために祈りの儀式をしているのだそうだ。あることとは何か。それは「世界平和」だった。
 彼らは真剣に祈り続けるのだ。自分たちが祈ることで世界が平和になると心から信じて。
 そんなエピソードをル・クレジオが紹介した。
 小さな民族が世界の片隅で祈ったくらいで、達成できるわけがない、効果なんてないに決まってる、ばかばかしい、とわたしは思った。でも同時に胸が痛くなった。そんな小さなこと、非科学的なことで、世界平和なんて巨大な願いに対して効果がないに決まっていると頭では思うのに、だからこそ真剣にそれを行っている彼らに対してはっとさせられる。はっとした瞬間、わたしは少なくとも世界平和に対して思いを馳せ、世界が平和になればいいと感じていた。
 ル・クレジオはその部族の話をして、こう言った。
 小説を書くことは、その部族の祈りのようなものだと思っている、と。
 講演が終わり、質問を受け付ける時間になる。一番前の席で熱心に聞いていた女が、あまりの興奮で聞き取りにくい早口で喋る。わたしも小説を書いている、だからこれを聞きたいのだ、と質問を投げかける。「あなたは言葉の力を信じるか」。少なくとも私は信じているからこの仕事をやっていますと、ル・クレジオは答えた。まるで、信者と神父のような一場面だった。
(2006年1月29日シンポジウム「ル・クレジオの群島」東京外語大学にて)

 写真は右がル・クレジオで、左が今福先生です。