書くこと

エリザベス・コステロ

エリザベス・コステロ

 これを読んでいます。エリザベス・コステロという架空の、頑固で不機嫌な老齢の女流作家の口を借りて、クッツェーの小説観が荒々しい形で提示される物語。エリザベスは完璧な人間じゃないし、頑固だし、意固地だから、彼女の言うことも正しいことばかりじゃない。だけど、彼女はやっぱりすごい作家で、命かけて小説家をやってきていて、譲れないたくさんのものを持っているから、正しさも正しくなさも含めて、まるごとわたしは飲み込み、未消化のままもぐもぐしている。長年小説と真摯に向き合ってきたクッツェーの全力投球を、わたしが受け止められるわけはないけれど、かすっただけでも目が覚めるような何かがあって、分からないまま、丸ごと飲み込んでいる。今は、それでいいと思う。数年後に、また読むつもり。
 ようやく次の長編を書き出せた。(何回も同じことを書いている気がするけれど。それは、書き始められたと思っては、途中で枯れてしまう、という繰り返しだから。)
 何を書くかが決まって、どんなことを書くかが決まっても、そのシーンをまだ書きだせない。つづるだけなら、いくらでもできる。でもそれはただの「説明」になってしまって、たましいが入らない。そんな文章は一文でも書きたくない。書いてしまうと、物語が死んでしまう。
 だから歩き続ける。経験則だけど、歩くのがいいみたい。延々と町を歩き続ける。歩き続けた果てに、たましいのかけらをつかまえることができるときがある。カフェに飛び込んで、書き始める。そのときは馴染みのカフェじゃ駄目。誰もがわたしを無視するようなにぎやかで孤独なカフェがいい。自分でも判読できないような汚い字で書きなぐる。登場人物たちが、書き始める前には考えもしなかったような発言をしたり、予想外の行動をしたりする。おかげで、作者のわたしのまだ知らなかった物語が明らかになる。書き終わって呆然とする。なんだ、そういうことだったのか、と思う。自分の書いたものに自分で驚くなんて、奇妙なことだと思う。
 映画監督なら、脚本を用意して入念に準備を重ねて、いざ撮影を始めたら、役者や撮影スタッフの、それぞれのたましいが光って、アドリブも加わって、現場で思いつくアイデアも加わって、予想を越えた映画が撮れて、そのことに感動することもあるのだろう。
 何だかわたしは、それを一人で全部やっている。出来上がった物語は、まぎれもなくわたし一人で作ったものだけども、わたしだけが作ったものじゃないような気がするのは、そのせいなのかもしれない。小説家って、奇妙な職業だと思う。

 わたしは作家ですので、耳に聞こえることを書く。目に見えざるものの秘書、大昔からあまたいる秘書のひとりです。それが、わたしの天職なのです、秘書として口述筆記をするのが。聞きとったことを調べたり裁いたりというのは、わたしの役どころではありません。わたしはただことばを書きとり、試してみる。そのまっとうさを試してみるのです。正しく聞きとれたか確かめるために。

「エリザベス・コステロ /J・M・クッツェー」より引用。エリザベスのセリフ。