書くこと
- 作者: J.M.クッツェー,J.M. Coetzee,鴻巣友季子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/02
- メディア: 単行本
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ようやく次の長編を書き出せた。(何回も同じことを書いている気がするけれど。それは、書き始められたと思っては、途中で枯れてしまう、という繰り返しだから。)
何を書くかが決まって、どんなことを書くかが決まっても、そのシーンをまだ書きだせない。つづるだけなら、いくらでもできる。でもそれはただの「説明」になってしまって、たましいが入らない。そんな文章は一文でも書きたくない。書いてしまうと、物語が死んでしまう。
だから歩き続ける。経験則だけど、歩くのがいいみたい。延々と町を歩き続ける。歩き続けた果てに、たましいのかけらをつかまえることができるときがある。カフェに飛び込んで、書き始める。そのときは馴染みのカフェじゃ駄目。誰もがわたしを無視するようなにぎやかで孤独なカフェがいい。自分でも判読できないような汚い字で書きなぐる。登場人物たちが、書き始める前には考えもしなかったような発言をしたり、予想外の行動をしたりする。おかげで、作者のわたしのまだ知らなかった物語が明らかになる。書き終わって呆然とする。なんだ、そういうことだったのか、と思う。自分の書いたものに自分で驚くなんて、奇妙なことだと思う。
映画監督なら、脚本を用意して入念に準備を重ねて、いざ撮影を始めたら、役者や撮影スタッフの、それぞれのたましいが光って、アドリブも加わって、現場で思いつくアイデアも加わって、予想を越えた映画が撮れて、そのことに感動することもあるのだろう。
何だかわたしは、それを一人で全部やっている。出来上がった物語は、まぎれもなくわたし一人で作ったものだけども、わたしだけが作ったものじゃないような気がするのは、そのせいなのかもしれない。小説家って、奇妙な職業だと思う。
わたしは作家ですので、耳に聞こえることを書く。目に見えざるものの秘書、大昔からあまたいる秘書のひとりです。それが、わたしの天職なのです、秘書として口述筆記をするのが。聞きとったことを調べたり裁いたりというのは、わたしの役どころではありません。わたしはただことばを書きとり、試してみる。そのまっとうさを試してみるのです。正しく聞きとれたか確かめるために。