きみは何を願う?

 久々に走った。鴨川の岸辺は、草も木々もきらきらと輝いて、誰に世話されたわけでもないのに、黄色やオレンジやピンクの花が咲き誇っていた。平日の昼間、誰も足を止める暇がなく、観光に訪れた旅行客たちも史跡を見るのに忙しいのでわざわざ雑草を見たりはしない。誰も見ないこの瞬間を見て心を動かしてそれを閉じ込めて誰かに届けることが、わたしの本当にやりたい仕事なのに、と思った。
 バイトだから、仮の姿だから、と自分で思っていても、求められていくうちにアイデンティティは侵食される。求められて応えていくうちに、気がつけば搾取されていることに気がつく。
 突然昨日、もう、わたしは、人のわがままを聞かなくていいんだ、と悟った。わたしに何かを求めてくる人たちは、自分の要求を言っているだけで、わたしはわたしの要求を言って、互いが合致するところで事を運べばいいんだ。なにせ、彼らはわたしの人生に責任を持ってくれるわけじゃない。
 そして今日、きらきらと流れる川の水を見ながら、叶えられる願いの数は有限なのだ、と思った。
 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の後半は、今まで本を通して物語の世界を見ていた人間の少年が物語の世界にやってくる。そこでは、彼の願いは何でも叶えられる。美しくなりたいと願えばそのとおりになるし、誰よりも強くなりたいと願えば叶えられてしまう。ただし、何かを願ってそれが叶うと、代わりに元の世界での記憶を1つずつなくしてしまう。なくなってしまうのだから、なくしたということにも気がつかない。全ての記憶をなくすと元の世界に帰れなくなる。帰れないばかりか、物語の世界で自分が誰だか分からなくなって壊れた機械人形のように意味のない同じ動作を永久に繰り返すはめになる。
 少年は、虚栄心を満たすためやちょっとした好奇心や気まぐれで願い事を次々使ってしまい、本当の進むべき道がようやく見えたときには、残り二つになって、最後には自分が誰だか分からなくなってしまうけれど、物語の国の友人の助けで何とか元の世界に帰りつく。
 読んでいたときは、ただ夢中だったけど、ふいに今日、「あ」と思った。この世界でも叶えられる願い事は有限なんだ、と。
 とても平たく言えば、個人の持ってる時間と財産と能力と運を、願い事をかなえるために費やすわけで、叶えるのが困難な願い事ならたくさんそれらを使って他にまわす余裕がなくなるし、小さなこまごました願い事を叶えていれば、大きな願い事が叶えられなくなる。たくさんの願い事を叶えるポテンシャルを持ってる人もいるし(才能やら持って生まれた財産やら)、ほとんど叶えられない人もいるかもしれないけれど、自分の持っている「願い事量」を何にどう使うか、それが一番大切だなあと、ふいに悟り、帰ってきました。
 本当の道にまっすぐにはつながらない小さな願い事を叶えてきた1年だったなあと思う。1年どころじゃない、今までずっとそうだったのかもしれない。それも全て必要なことだった、のかもしれない。急に「あれ、わたし何やってるんだろう」と悟ったのは、これまでの全てがあったからなのだけど、もう残された「願い事量」は全て費やさないといけない。わたしの叶えたい願い事は、本当に本当に困難な道なんだ。
 あまりにべたすぎて忘れてたけど、20代最後の年だしなーとか思ったり。今更ね。