実践的日記(1)

■7月6日(日)
 朝、起きて、寝転んだまま本を読む。横田創と言う人の、新人賞を獲った小説。なかなか、おもしろい。このごろ私は、いやに早く目が覚める。でも、体は起きたくないものだから、いつまでも寝転んでいる。目覚めた心だけが、退屈で、じたばたする。寝たまま、足でカーテンを開ける。光が差し込んでくる。それでも体は起きようとしないから、本を読むことにした。でも、本を読むことにしたのは、昨日からだ。本当は、私、朝は本なんて読まないのだ。寝たまま携帯電話を握りしめて、ばかみたいに人の言葉をむさぼっている。どうして私はこんなに淋しいんだろう。みなの注目を集めたがるくせに、それに耐えられるほど、立派な女じゃないから、大声を出しては恥じ入ってばかりいる。それでも何か叫ばずにはいられない。あさましくて、いやになる。いやになって、本を読むことにした。でも、結局、そのあと携帯電話を見るのだから同じことだ。
 日曜日の朝。小説を書いて生きると決めた日から、私の朝は何曜日でも同じになった。仕度して大学に出かける平日も、彼のいない土曜日も、二人で目覚める日曜日も、みんな同じ。私の中の何が変わったのだろう。心配もなく、淋しさもなく、苦しみもない朝。そういうポーズを取りながら、人の視線をかき集めずにはいられない。どちらが本当の私なんだろう。こんなふうに、どちらが、とか、本当の、だとか考えること自体もポーズなのだと思えば、きりがなくて恐ろしい。いっそ、誰にも私のことをしゃべらなければ、ポーズを取ることもなくなるのだろう。そうしたら私、あさましさを自分一人で抱えながら、膨れて死んでしまうんじゃないかしら。そうなれば、いやらしい死体を見られてしまうから、結局一緒だ。ばかばかしい。
 一人で考えてばかりいるから、こんなふうになってしまうんだ。暇だからだ。暇は怖い。ぶくぶくと醜くなってしまうから。えいや、と起き上がる。朝食にフレンチトーストを焼いてもらう。卵の黄色とハチミツのとろける香りで、やさしくなる。目の美しい人だと思う。見ていると叱られる。お昼は二人で外で食べる。それから玉突きをする。0勝4敗。彼の機嫌がよいので、気分はいい。
 暑さのせいか、帰って来て布団に倒れこむ。そのまま眠ってしまう。目が覚めると、赤紫色の夕焼けが広がっている。美しくて、涙が出そうになった。この夕靄に包まれて、ベランダからふんわり飛んでいって、あの空に浮かびたい。そうしたら、私、清くなれるんじゃないかと思った。それなのに、また携帯電話のボタンを押す。ここを開くのをやめられない。どうして小説を書くのですか、と聞かれていた。目をつむる。赤紫色のかけらが、胸の中にまだある。ぽんっと、言葉が浮かび上がる。それしか取り得がないから、私は小説を書くのです。これもポーズかしら。一種のポーズには違いない。でも、本当のことかもしれない。きっと私のあさましさは、何かで一番になりたいという気持を抑えて、負けながら慎ましやかに暮らすことができないのだ。私よりピアノの上手い人がいる。足の速い人がいる。勉強の出来る人がいる。可愛い人がいる。そうやってひとつひとつ一番を争うことをやめて、降りることをくり返して、これだけは手放せないのが小説なんだ。
 争うとか、勝ち負けとか、どうでもいいような夕焼けの空。あの空のように清浄に立派に生きていく人もある。そんな人に出会うと、私は、はっとさせられる。けれども、私は、浮かぶことができないまま、夕焼けの空が消えていくのを、見守っていました。

太宰治「女生徒」の文体で日記を書くという実践)