第九回「動物と植物」フランシス・ポンジュ(15分半)
森や草原に生えている木々や花は好きだけれど、家の中に植物を置くのは怖い。凌駕されそうだからだ。根を制限しても切ってもなお鮮やかなその生命力に。切り花は死体のようなものだと思っていた。だから自分で買って家に飾るのは怖かった。でも、彼らは彼らの別のルールで生きていて、痛いとか苦しいとか(動物のようには)感じない代わりに、何か別の時間を過ごしている。
ポートレート写真を撮るために買ってきた花。花屋さんにあったときから、少しへたれていて半額で買ってきて、撮影が終わったらその場限り、花びらを撒いたり、海に流す図なんかも素敵かもしれないなんて思ってたのに、花びらをちぎることも捨てることもできなくて、ぐったりした花を持って帰った。茎を切ってコップにつけておいただけで、みるみる鮮やかさを取り戻す彼らを見て、彼らは彼らの別の流儀で生きているのだ、と思った。
わたしの好きな詩人にフランシス・ポンジュがいる。サルトルが絶賛した詩人。彼は、「物の味方」という詩集の中で、まるで辞書のように様々な「物」を描写する。日常の言葉を積み重ねて丁寧に描写されるそれは、一人の人間の勝手な思いではなくて、あくまで物に寄り添って寄り添って、物の「味方」になって書かれた描写。彼の植物の描写が好きだ。世界に広がろうと葉を出し続けるが、木は木であることから逃れることはできない。醜くすらなれない。まるで悲しい物書きのようだから。
- 作者: フランシス・ポンジュ,阿部弘一
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 1971
- メディア: 単行本
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詩を朗読するのは難しい。もともとポンジュの詩はフランス語で、幾重にも掛詞があって訳したものが完全に原作を表現できているとはいえないらしい。また、わたしが読むことで文字情報が欠けて、意味が誤解される部分もある(したい、というのは死体ではなく肢体のことなのですよ)。だから、原作そのもののよさから確実に劣化している。でも、劣化してでも残る絶対的なよさがあって、それは作品の魂のようなものだと思う。それを伝えたい。
種子をそっと撒きます。どこかの土壌で何かが芽吹きますように。