第8回「檸檬」梶井基次郎

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 梶井基次郎の最も有名な短編です。数年前、わたしがまだ福岡にいた頃、友人を訪ねて京都に遊びに来たときに「梶井基次郎檸檬の店があるよ」と教えてもらって感動した覚えがある。その子自身は、檸檬を読んだことがなかったのだけど。この短編、一般の人の認知度はどのくらいのものなんだろうか。京都を歩いて、檸檬を買って、丸善に置いて、それを檸檬爆弾だとか呼んで、丸善の爆破を夢想する。檸檬の店を見たとき、昔一読したことある記憶を辿って、こんな程度の話を思い浮かべた。あらすじしか覚えていなかった。でもしばらくして原作を読み返してみたら、冒頭のこんな文章にぎょっとさせられた。

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。

 うわ、檸檬ってこんなに暗い話だったっけ。それ以来、何度か読んだけれど「暗い話」という認識は変わらなかった。でも今回朗読して何度か聞いているうちに、語り口が意外に明るいことに気がついた。憂鬱の塊は晴れない。金もない。住まいもない。芸術も味気ないものに思えてしまう。そんな状況を、淡々と受け入れているような文章だった。嘆くわけでもない。訴えるわけでもない。そういう自分の状況を、まるで通りすがりに見つけた珍しい建物を描写するように淡々と語っていく。字面は暗い。焦燥やら嫌悪やら不吉やら、そういう語がごろごろ出てくる。それなのにほのかに明るいのは、彼がその言葉に寄りかかってないからじゃないか。朗読してみて初めて、また違った「檸檬」が見えてきたような気がしました。

 ところで、梶井の文章は五感をフル活用しないといけないと思った。そうしないと味わえないというよりは、意味不明で迷子になりそうになる。果物屋に並べられた色とりどりの果物の描写はこんな感じ。

何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。

 正直、一度目に読んだときは情景も何も思い浮かばなかった。言葉に振り回されて意味を取るので精一杯。編集のために何度か聞いているうちに、ようやく頭に入って、ああこれしかないというような情景が思い浮かんだ。「華やかな音楽」の、しかもその「アレグロの流れ」が、石化させられて固まったもの。そして、梶井のイメージの中で、音楽の流れは、石化して固まってしまうと、色彩や体積を持ってしまうのだ。
 一見地味な文章なんだけど、やるじゃんという感じです。
 ちなみに檸檬爆弾を仕掛けられた丸善は、今はなくなり、チェーンのカラオケ屋がそこに建っているのでした。わたしが京都に来てからの話で、結構衝撃でした。でもまあ、金のなかった当時の梶井にとって敷居が高く気詰まりだった丸善。これに取って変わって現れたカラオケ屋は、少々お高いランクのカラオケ屋なのでわたしにとっては敷居が高く、ある意味檸檬の精神は残っているのかなあと思ったり思わなかったり。実はまだ、入ったことないです。いつか、檸檬持って進入しようと思います。