第6回「蜘蛛の糸/芥川龍之介」(10分半・完結)

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 大泥棒カンダタが生前たった1回、気まぐれで蜘蛛を踏み潰すのをやめて助けてやった。その報いに地獄から助けてやろうと、極楽にいるお釈迦様が眼下の地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らす。その糸を発見し、喜んで登っていたカンダタは、ふと眼下に大量の亡者が同じように糸を登ってきているのに気がつく。ただでさえ細い糸なのに、こんなにたくさんの亡者が登ればますます切れやすくなってしまう。焦ったカンダタが、これは俺の糸だ、お前らは降りろと叫んだ途端、糸はぷっつりと切れて、カンダタは元の地獄にまっさかさまに落ちてしまう。

 あまりにも有名な話なので今更この小説を読む人はいないかもしれない。でも、あらすじはともかく、注目すべきはこの語り口じゃないかと思うのです。何だか不思議で奇妙な小説なんですよ。たおやかなナレーター調。誰にも感情移入しないニュートラルな立ち位置。その絶妙な宙ぶらりんさが、不思議な余韻を醸し出す。
 語り手は、カンダタの浅ましさから読者に教訓を与えようとはしない。カンダタの人間としての悲哀にスポットを当てたりしない。物語は、揺れる蓮の描写から始まって、また揺れる蓮の描写で終わる。極楽が朝から昼になっただけ、ただそれだけの話なのだ、と語るこの小説は、読者をどこにも着地させない。まるで、切れて空の中途に垂れたままになった糸のように。


 芥川の小説は、小説ごとに「声」が違う。太宰の小説と対照的。太宰はどんな話だろうが、声は太宰自身だ。もしくは太宰を反射させ投影させる鏡の声だ。だけど、芥川は違う。作品を読めば読むほど、芥川自身の声はどこにもないようにさえ思えてしまう。芥川は小説ごとにあった声で物語を語っていく。
 芥川は「小説」の声を書いていく。太宰は自身の声を「小説」にしていく。朗読をしているとそんな気がしてくるのでした。
 自分の声がない、と悩んでいるわたしは、太宰の小説を読んで泣きそうになり、芥川の小説を読むとまた泣きそうになる。そう、まだまだ少しも近づけないけれど。