第一回 「カチカチ山」太宰治

 朗読始めました。おでん始めましたみたいなノリで。
 http://www.geocities.jp/chiku_kan/roudoku.html
 ネット上で無料で公開している朗読ファイル、結構あるんですね。プロのアナウンサーの人や役者さんがやってるやつ。そんな中、声に関しては何の取柄もないわたしがわざわざやることないんですけど、一つだけわたしがやることに大きなメリットがあるんです。それは、わたしの勉強になることです。ここはわたしが小説家になるためのサイトですからいいんです。聞かされるほうは堪りません。いやね、朗読自体は需要はあると思うんです。手がふさがってるけど頭は空いてる。ああ、本読みたい。そんなときありませんか? 車の運転中とか、家事をしているときとか、実験中とか。わたしなんかドライヤーで頭を乾かしながら本を足で押さえて読もうとします。まあ、大抵本は濡れ、髪は乾かず、足でページをめくろうとして固い体が悲惨なことになりますけれど。そんなとき、朗読で読書なんてのもいいですよ。ええ、わたしなんかが読んだやつじゃなくてもっといいのを探すことをお薦めします。

 とはいえ、まあわたしがやるからには、わたしのお勧めのものをお勧めなように読むのです。第一回目に選んだのは、太宰治の「カチカチ山」。カチカチ山ってあれですよ。爺さんに捕まえられた狸が狸汁にされかけて、婆さんを騙して婆汁にして逃げた話です。その復讐に兎が狸をあの手この手で騙し、背負った柴に火をつけたり、火傷した背中に唐辛子を塗りつけたり、泥舟に載せて溺死させる話ですよ。あれを太宰が、新解釈でうだうだと講釈する、落語のようなお話です。この話の狸は実は下品な40手前のおっさんで兎に恋してて、兎は無邪気で残忍な16歳の処女なんだ、ということなので、聞き手が兎に萌えるよう心をこめて読んでみました。

 海外文学ばかりを読んできたせいで、わたしは我ながら自分の文章がぎこちなくて下手だなあと思う。主語だらけになったり、〜と言った。というフレーズばかりになったり、微笑んだ、とか苦笑した、だとか。ワードで誤字チェックをしていると同じフレーズがずらっと並んで嫌になる。馬鹿の一つ覚えみたいな語彙しかない。日本語ってもっと柔軟で、主語がなくても通じる。うまくうまく流れに乗ってさえいれば、気持ちよく耳に入ってきてその上意味も分かりやすいはずなのに。昔の文豪の文章は、旧漢字だろうと今は使わない単語があろうと、耳なじみがよく心地いい。その流れのようなものを朗読によって掴みたいと思うのです。書き写してみる?とか思ったけれど、めんどくさいし、第一わたしが文章を書くときは頭の中で喋り声で聞こえてくるわけだから、書き写しても意味がないわけで。実際に読んでみると、効果は大いにあるように思える。何だか日記の文章まで太宰風味になった錯覚さえする。(気のせいだ。) 人に聞かせようってんだからしっかり読んで解釈しようと頑張る。しかもただ読むだけじゃなく、録音して編集するので(一度も言い間違えがないのは、言い間違えたら正しく言えるまで言い直し、あとで間違えた部分をカットしているからです)、何度も話を聞くはめになる。耳に文章のリズムが残る。下手したら部分的にそらんじることさえできそう。このカチカチ山は「作者」と「兎」と「狸」の三人の登場人物が出てくるわけだけど、ただ文字を読むだけでは読み飛ばしていた声色も言葉に含まれた感情も、しっかり読み取らなくてはいけないから、普段の読書よりずっと解像度が上がる。

 で、これらの効果は、人に聞かせるというプレッシャーからきているわけです。だから、やむを得なく発表するのですよ。ああ、長い言い訳だった。楽しいな。わくわく。わたし国語の時間当てられるの楽しみだった系。自己満足でもいいのだ。少しずつ成長するから。雑音や音割れももう少し何とかするから。次は何を読もうかな。反響などないのがデフォです。お気になさらず。

 カテゴリー分けの使い方が分からん。