最後くらい

 きらら携帯メール大賞、最終に残ってました。さて、佳作か月間賞か取れたらいいな。でもまあ、少し今までと違うものが書けた作品だったから、それを編集者の人が認めてくれただけでも嬉しい。
 3月も残り1日。執筆時間確保できたので、寝て起きたら頑張ろうと思う。3月はまだ終わらんよ。
 今は村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでます。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

 この本が出たとき、かなり反発して敢えて買わなかった記憶がある。何だよ!前の訳だっていい訳だったのに、わざわざ翻訳しなおさなくていいじゃないか!みたいな。どうせ全編、春樹節なんだろ!でも、池澤夏樹さんの講演を聞いて「翻訳は一つの解釈だ」という話で、なるほどなあって思ったのでした。彼は、河出書房新社で世界文学集を編集するにあたって、新訳をたくさん取り入れてる。わざわざ訳しなおすのはなぜか、別に前の訳が悪いというわけではない。言葉は古くなってくる。大昔、アメリカの文化を全く知らない日本人向けに書かれた翻訳のまま読むより、今ならカタカナはそのまま、文化もある程度知ってるという前提で訳した方が物語に入りやすい。翻訳は新しくできる、解釈しなおせるという長所がある、と語ってたのにわたしは感銘を受けたのでした。イギリス人は可哀相だ、シェイクスピアを原文でしか読めないから、というジョークがある、なんて言ってた。なるほど。
 池澤さんの話をふまえて、最近は翻訳って「解釈」でもあり「演出」でもあるのかなって思うようになった。楽譜に記されてる原曲は同じなのに、指揮者によって雰囲気の違う曲になるオーケストラのような、台本は同じなのに演出家によって違う色合いになる舞台のような、それが翻訳という芸術なのかなと思ってる。で、何だかんだ言って、わたしはサリンジャーが好きなので、じゃあ村上春樹が演出したものもチェックしようじゃないか、というわけで読み始めたのでした。
 以前の訳は、古き良きアメリカというセピア色のイメージだったけど、こっちはすごく身近な感じ。それも遠い異国の少年ではなく、何だかその辺にいそうな感じ。俗語も絶妙。あまりやりすぎてたら、外人さんって感じなんだけどね。で、春樹が訳したということを全く気にせず読んでいる。勝手に懸念してた、サリンジャーの登場人物が村上春樹の小説風になってるということは全然なくて、たぶん言われなきゃ村上春樹訳って分からない。訳者としてさすがだなあと思った。
 英語で本を読むことに何度か挑戦して1ページも進まずに挫折して、それがとても後ろめたい感じだったのだけども。でも、池澤さんの講演で、新たな言語をマスターして原語で読むのはものすごく労力がいる、すばらしい翻訳がいっぱいあるんだから翻訳でどんどん読めばいい、って言ってるのを聞いて以来、そうか!そうしよう!とすっきりしました。どんだけ訳が悪いとか、文章が固いとか文句言ったって、自分でやるよりましだもんね。そこはプロに任せて、どんどん読んでいきたいなと思う今日この頃なのでした。