どんなに忙しくても小説を読めないほど忙しいことはない。

「どんなに忙しくても小説を読めないほど忙しいことはない」
 中学校のときの塾の国語の先生の言葉です。この言葉に、そうだそのとおりだ!とすぐに賛成できる人はどのくらいいるんだろう。作家のたまごなわたしでさえ、賛成しかねる。忙しかったら小説とか読んでる場合じゃないよ!と思う。ましてや、この言葉を聞かされたのが高校受験を数ヵ月後に控えた時期で、朝から晩まで寝る間も惜しんで勉強してて、10分でも時間があったら英単語でも覚えなきゃみたいなそんな状態だったのに。何言ってんのさ!このおっさん!そんな説教してる暇があれば点取れる方法教えやがれ!と思ってました。いやまじで。
 でもこんな時期に言われたからこそ、いつまでも心に残って忘れられない。塾の先生なら小説なんか読んでないで勉強しろって言うだろう。小説を読むことについて話す暇があれば入試に頻出の問題解説でもやっていればいいだろう。何で先生はわたしたちにあの時期にそんなことを言ったのだろう。ずっとずっと引っかかっている。忙しさで頭がいっぱいになったときには、この言葉を思い出す。そして少しも納得できないしその通りだなんて思えないんだけど、ただこの言葉を思い出すだけで、頭にぷすんと穴を空けられた気分になる。あれ、本当に小説を読む時間ないのかな? 忙しい忙しいとか言ってるけど、ネット1時間以上してるじゃん、テレビ1時間見たじゃん、だらだらと漫画読んでたじゃん…と思い返したりするのでした。1時間あればかなり小説読める。10分でもかなり読める。そんなふうに「忙しい」の外から自分を眺めることができたら、気持ちに余裕が生まれる気がする。

 小説を読むというのは何だろう。わたしは作家志望だから、小説好きだから、小説を大量に読むのは当然だと思ってる。でもそうじゃない人も、自分の仕事に関係ない人も忙しい人も案外小説を読んでいて、通勤電車の中で読むのが楽しみだとか毎日一冊読んでからじゃないと眠れないとか、そんな話を聞くと不思議な気持ちになる。人はなんで小説を読むんだろう。一旦小説の面白さにはまった人には、どうして面白いかなんて説明する必要はないし、読みたいから読む、それだけで十分だ。だけど小説を読まない人に何の役にたつの?と聞かれたときの答えがこの言葉に隠れている気がする。

 小説を読み終わると、今まで自分の頭を悩ませていたたくさんの問題から離れていたことに気がつく。離れていた分だけ頭の中が軽くなっている。自分と別のフィクションの物語を詰め込まれて逆に頭が重くなってもいいはずなのに、なぜかちょっとだけすっきりする。その「すっきり」が小説の売りだと思う。それは物語の力だ。物語の力を一番発揮できるのは小説だ。なぜなら、物語以外の情報が他のジャンルに比べて圧倒的に少ないから一番純粋に物語の力が発揮できる。視覚も聴覚も強制的に操作されたりしないから。自分の人生と他の物語を読んでいる間は、自分の人生のことをしばし忘れる。そのことも重要なんだけど、よりリアルに書かれたフィクションに没頭して感情を動かされたら、その分自分の人生がフィクション化する。少し軽くなる。これしかないと思ってた自分の人生が、多くの物語の一つだと思うようになる。こういうのもありか、と思ったりする。これは自分の人生の外から自分の人生を眺めていることなんだろう。

 忙しくて小説なんて読んでいる場合じゃない、と思っているとき、それは自分を客観的に眺めることを忘れているときなのかもしれない。なんて思ったりします。いやまだ分からないんだけど。とりあえずは、今は、意味も理解できないまま唱えるだけです。「どんなに忙しくても小説を読めないほど忙しいことはない。」